聖書のことば 9月号


 

聖 句

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・・信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント人への手紙13章)


いじめについて思う

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 子育てでいつも問題になるのは、いじめの問題です。小学校に上がったころからそれが顕著になります。集団生活は、学びの場でありますが、負の側面も伴います。いじめが起きやすくなるからです。同じクラス、同じ席、同じ班など自分で選べない環境は、とても不自然で窮屈な状況なのです。しかも、いつの間にか見えないランキングもできてしまいます。大人の社会でも、いじめは起きています。


 いじめには、暴力によるいじめと言葉によるいじめがあります。心の中の思いは言葉になり、暴力に発展するのです。言葉によるいじめは、例えば、笑いものにする、無視する、悪口を言うことなどです。その他ネットによるいじめも起きています。いじめは、一般社会のルールのようなものはなく仲間の中だけで通用する掟が作られることが多いです。残念なのは、この掟が絶対であるかのように、いじめを受ける子は考えてしまうことです。しかも近くにいる子供たちに保身的な力が働いて「仲良くしようよ」と言うだけで、効果ある対策がなされません。


 いじめが起きている現場にいる仲裁者も助言者もいじめられている子と同じ状況の中にいるので、同情してくれたことで慰めになっても、根本的な解決を与えられないことが多いのです。本当に必要なのは、通報者です。いじめを見たら、先生や学校、親にまず知らせることです。場合によっては警察に通報する必要があるかもしれません。いじめの加害者は、いじめをしたことを時間が経つと忘れがちですが、被害者はいつまでも心と体の傷は残るのです。いじめは犯罪行為であるという認識が必要です。いじめの問題解決のためには、ケースによってみな違いがあるので、まず状況分析し、同じ悩みを抱える親や有識者と連携して対処することです。


 今日ほど問題視されませんでしたが、昔もいじめはありました。いじめはどうして無くならないのか追及してゆくと、人間とは、社会とは、という大問題を考えることになると思います。キリスト教では、人間の本性について考える時、重大なことの一つとして聖書が教える原罪の問題があります。神さまは人間を善い者として造られたが、原罪によって傷ついた者として生まれてくると書かれています。その結果として、人間はいじめをしたくなる本性と、いじめは悪いことだからやめさせようとする本性とを持っているのです。一人の人間の中に二つの本性が混在しているのです。だから厄介な問題です。人間の本性を考えると、いじめはいつでも、どこでも、どんな時代でも起こり得るでしょう。結局、いじめが起きにくい環境を整える努力を絶えず続けることが大切なのです。教育的にも、法的にも、そして起きにくい工夫を凝らした環境づくりが求められます。怠るといじめをする環境へと流れてゆきます。悪い流れに逆らって、好ましい環境を作ることは、今日の聖句にある「愛」のある心によって可能なのです。もともと善い者として造られた人間はこのような愛し合う関係を作れるし、作るべきです。誰もが大切にされ、互いに助け合い、補い合う社会を目指しましょう。

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