2023年3月24日金曜日

聖書のことば 4月



聖句

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」(ルカによる福音書6章31-32節)

子供の自主性

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦 

 新園児を迎えて、当園も喜びにあふれています。コロナ過から完全に開放されたわけではありませんが、マスク着用も個人の判断にゆだねられるようになり、ようやく普通の生活を取り戻そうとしています。新園児たちにとって不安と緊張の中での入園式を迎えることでしょう。初めての共同生活、多くのお友だちをつくって欲しいと思います。人は人との関わりの中でしか成長できないのですから。

 また「人は主体的に生きることによって幸福になれる」と言われます。ご両親の立場になると我が子がみんなと仲良くやって行けるだろうかと心配のことでしょう。子供はあらゆる面において、大きく成長する可能性を秘めています。

 当園はモンテッソーリ教育法を採用しています。この教育法の最も大切にしていることの一つは、自分で選ぶということです。他人に指示されてではなく、自分で選び取ることができるようになることの中には、好き嫌いのほかに、やる気、結果の対する自己評価、反省などが含まれています。また上手くできた時の喜びや上手くできなかった時のくやしさの体験をしながら結果にたいする責任感も醸成することになります。大人になってからも自分で選び取ることの重要性は変わりません。

 人の一生の中で、他人に相談することはあっても最終的に自分で選び取る決断をしなければならない場面が多くあり、その決断を幾つも重ねながら人間的成長が為されます。今月の聖句にあるように「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」ができるようなることは、私たちの目標であり、それを達成するには自主性がなければできないことです。私たち大人も子供もこの目標に少しでも近づきたいものです。

保護者の皆さんも今まで以上に我が子との関わりを持ち、同時に子供の自主性を大切にしたかかわりを持ってくださることを願っています。保護者の皆さんと全職員が一丸となって、子供の成長のために尽力したいと思っています。子供の成長は、私たちみんなの喜びであり、希望を抱かせてくれることです。

 

2023年2月24日金曜日

聖書のことば 3月

 聖 句

「マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、復活されたイエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」(ヨハネ20:11-14)


新たな旅たちに向けて

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 梅の花の香りが、春の風に乗って漂い始め、今月末には桜も満開となる季節となりました。そんな素晴らしい季節に卒園式を迎えます。しかし、厳しい冬を通り越さなければ、うららかな春が来ないように、私たちの人生も、長い忍耐と苦しみを通り越さなければ、魂の底から溢れる喜びは訪れないのです。

 私の大学時代、学生寮で共に過ごした友人,新井 満 氏が2021年の12月に亡くなった。作家であると同時にシンガーソングライターでもあった新井氏が、妻を亡くした友人を慰めるために作曲した「千の風になって」は多くの人々に歌われた。そして彼もこの世を卒業して逝きました。

 愛する者を失った人にとって、その愛する人の面影は消えるものではありません。生前と違って、いつでもどこでも傍にいてくれるような気がします。生前の思い出が走馬灯のように思い巡らされ、いとおしさ、せつなさに浸るときその人の存在がいかに大きかったか思い知らされます。人は命を与えられ、生かされ、そして人の世話を受けながら生き、人の手によって葬られてゆくのです。「千の風になって」は、悲しみの中にある者を「私のお墓の前で、泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。」と今やいつもあなたと共にいるよ、さあ、新たな出発をするようにと促すのです。

 キリストに出会って罪の生活から救われたマグダラのマリアは、キリストを愛し、キリストのみを真のよりどころとして生きていました。彼女にとってキリストの死は、慰めようもない深い悲しみであり、生きている意味を失ったかのように落ち込んで、墓の前で一人泣いていました。そんな時、空になっていたお墓で復活したキリストに再び出会ったという記事が今月の聖句です。最初は、復活されたキリストであると気が付きませんでしたが、すぐ後で認識する恵みを得ました。彼女は喜びのあまり、われを忘れて足元にすがりつきました。キリストは彼女に言われました。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ昇っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方の所へ私は昇る』と。」

 この世のどんな出来事もすべて過ぎ去るもの。それらにすがりついてはいけない。むしろ人々のところに行って、この復活の喜びを告げ知らせなさいと、キリストはマグダラのマリアに優しく促しているのです。もう、悲しんでいませんでした。何故なら復活の信仰を新たにし、生きる希望を見出したのですから。新しい人間となって、喜びいさんで、復活の喜びを宣べ伝えるために人々の中に出かけて行ったのです。

 今年度も終わろうとしています。子供と共に親も新たな段階へと進むのです。新しい年度を迎えると、色々なことが新しくなります。過去や目先の事柄だけに捕われることなく、将来に向けて元気よく歩みだす力と勇気、そして希望が与えられますようにと願っています。


(注)このブログのコメントを誰でも書き込むことができる設定にしました。



2023年1月26日木曜日

聖書のことば 2月


 聖書のことば

 イエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。 母はこれらのことをみな、心に留めておいた。(ルカ福音書 2章49-52節


 ともに成長するために

 唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

今月の聖書のことばにある「父の家」とは、この場合エルサレムの神殿のことです。当時のユダヤの社会では、12才になると大人の仲間入りをしました。その年齢になったイエスは、律法を守るために両親と一緒に過越祭の祭り行くことになったのです。そのために初めて、両親と30キロ近く離れたエルサレムに歩いて上られたのです。帰路にあった時でした。両親は大勢の人々の中で少年イエスを見失ってしまい、一日かけてエルサレムへ引き返して散々探し回った挙句、神殿で見つけました。母マリアは「あなたは、どうしてこんなことをしましたか。お父さまもわたしも心配して、あなたを捜していたのです。」と言われたのに対するイエスの言葉が今日の聖句です。

普通の子供が応える言葉ではありません。母は意味が分からなかったのです。無事見つかって安堵の気持ちだったでしょうが、神殿で学者たちに囲まれて、大人と対話していたのですから、驚いたことでしょう。我が子の成長した姿を見るうれしさと同時に自分の思いを越えて人間として成長している我が子を見て驚いたのです。もう一人の人格を持った立派な大人として、我が子を見つめ直したことでしょう。「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」とありますが、母マリアにとって忘れられない応答の言葉であり、いつまでも記憶に残る一日になったことでしょう。このような機会は母マリアも我が子と共に成長する出来事となったのだろうと思います。

子育ての毎日の中にあって、何気ない日常の出来事や対話の中にも子供の成長を見出すことがあるかもしれません。いつでも成長過程に沿った対応ができるようになりたいものです。そう務めることは、子供と共に自分も人間的に成長することになるでしょう。我が子と共に成長させてくださる神さまに感謝と喜びをもって応えましょう。


2023年1月1日日曜日

聖書のことば 1月

 

園舎のちかくにある幼稚園の畑

育児を楽しむ

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

 新年、あけましておめでとうございます。今年も「聖書のことば」お届けします。今月は旧約聖書からです。

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻み付ける。」(旧約聖書イザヤ書4915-16節)

 

昨年の暮れに「母親になって後悔してる」。そんなタイトルの本が出版され、話題となっています。イスラエルの政治的圧力のかかった社会で書かれた本であるが、こんな言葉を言いたくても言えなくて、我慢している母親も少なからずいるのではないかと思います。それほど、育児は大変苦労の多いことだからです。何が一番のストレスになっているのか、人によって違うのでしょうが、とにかく育児は、持ってるエネルギーをことごとく奪われることであり、自分の人生設計の見直しを迫られることもあるのだと思います。神の恵みを恵みとして受け取れない場合もあるのでしょう。しかし、心の中で後悔する権利は誰にでもありますが、それを言葉して言うことによって、人の命の尊厳を傷つける権利はないでしょう。

 

 「乳児期は肌を離すな、幼児期は手を離すな、児童期は目を離すな、思春期は心を離すな」と言われます。親は四六時中、気の休まる時がありません。ストレスが溜まるのは当たり前です。しかし悩みながらも「最後はいつも神に委ねなさい」と付け加えたいものです。子育ては喜びも多いのです。子供の成長は早いもの、その成長に追いつけない親もいます。子供の成長過程に沿った子育てを心がけましょう。心の持ち方次第で子育ては最高に楽しいものになるのです。今がその時期なのです。大いに楽しめる親になりましょう。

 

しかし、やがて親元を離れる時が来ます。「神に委ねる心」はますます必要になります。そのための心の準備をしなければならないことを心のどこかに留めておきましょう。子供は神さまから預かっている存在なのですから。そして、今日の「聖書のみことば」にあるように、親の親である神さまは、子育ての大変さ、苦しみを一番わかっておられ、手のひらに刻み付けるほどあなたの苦労をしるして、覚えておられるのです。今日の「みことば」を信じる時、苦労の中にありながら子育てに喜びを見出すしょう。

 


2022年12月1日木曜日

聖書のことば 12月


 

クリスマスおめでとうございます。


唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(新約聖書ヨハネによる福音書1622節)


 クリスマスは人類の救い主、イエス・キリストの誕生を祝う日です。聖書の教えによれば、宇宙万物の全てが終りを迎える時があるといいます。世の終わりの時がいつなのか誰も知る由もないのですが、必ず到来すると言っているのです。

 

2千年以上前に救い主はこの世に来られました。それがクリスマスの出来事ですが、世の終わりの時も、救い主、イエス・キリストは再びこの世に来られる(再臨)と教えているのです。その時、全てのものは一新され、完全なものにされ、新たな命の世界が始まるのです。

 

クリスマスの時、イエス・キリストによる救いの大事業が始まり、今も続けられていると聖書は教えています。そして、キリストが再び来られるときに、全てのものが清められて新しくなり、不完全なものが完全なものにされて、完成の喜びに満たされるの時なのです。

 

クリスマスは、毎年巡ってくる単なるお祝い行事ではなく、救い主キリストが来られた歴史的出来事を祝うと同時に、これからキリストが再び来られて完成してくださることを思いめぐらす季節でもあるのです。その完成に向けて今もキリストは、人々の心に働きかけ、愛と慈悲に満ちた父なる神へと招く働きを続けておられます。そしてその慈しみの神のもとへ行くことを待ち望んでいる人々は、キリストの再臨の時に備えて心の準備をするのです。

 

2022年11月1日火曜日

聖書のことば 11月

夕暮れ時の唐津城(西の浜海岸)
 

死者の月に寄せて

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(新約聖書ガラテヤ人への手紙6:7-8節)

  今月は聖パウロの手紙の一節です。聖パウロは、しばしば肉と霊を対比させて語りました。ここで表現している「肉」とは神の意志に従わず自己中心的生き方に傾く心を指し、「霊」とは神の霊に導かれて神の意志に従おうとする心を指しています。

 ところで、カトリックは、11月を死者の月として、亡くなった方々を弔う習慣があります。霊に蒔き、霊から永遠の命を刈り取った人の臨終の床で書いた詩を紹介します。この方は、肺癌のため四人の幼い子供を遺して43才の若さで亡くなった牧師夫人(日本基督教団)原崎百子さんです。

     「わが礼拝

わがうめきよ わが讃美の歌となれ

わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ

わが涙よ わが歌となれ

主をほめまつるわが歌となれ

わが病む肉体から発する すべての吐息よ

  呼吸困難よ 咳よ 主を讃美せよ

わが熱よ 汗よ わが息よ

  最後まで 主をほめたたえてあれ

   (著書『わが涙よ、わが歌となれ』より)

 遺された子供たちが、大人になってこの詩を読んだときどのような思いになるでしょう。愛する夫と幼い子供たちを遺して旅立つことは、どんなにか辛く、悲しい現実を受け入れなければならなかったことでしょう。しかし、最後まで自分を見失うことなく、その苦しみを、神のみ旨の中で行われていると信じることが出来たのだと思います。将来のことは全て神に委ね、雄々しく病と戦い、苦しみながらも神を賛美することが出来るほど、神を信頼する心は、神の霊に蒔き、神の霊から永遠の命を刈り取った人といえます。普段から、それほどまでに神に依りすがり、神の慰めと力を得ていたに違いありません。「人は、生きてきたようにしか死ぬことはできない」といいますが、この母が健康な頃の日々の生活は、どのような生き方をしていたのか偲ばれます。いつの日か子供たちには、生前の母の生き方の偉大さを知る時が来て、誇らしく思うことでしょう。


 


2022年10月1日土曜日

聖書のことば 10月

 

衣干山さくら公園まで津波避難訓練

どうして争うの?

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネ第1手紙47-8節)

 毎日、武力による国際紛争が多くの地域や国で起きています。おびただしい数の人々の命が奪われています。歴史を見るといつの時代も戦争はありました。戦争は、人間の仕業です。争いの源は人間の心にあります。

公園で子供たちが争っています。ある子供は広場の片隅で泣いています。こんな光景を見るとき、そこに戦争の縮図があるような気がします。人間の持って生まれた性(さが)は、いつどのようにして人の心の中に入り込んだのでしょう。この性は子々孫々まで受け継がれてゆくのでしょうか。このような姿が私たち人間の現実です。

童謡作家、まど・みちお 作に次のような作品があります。

「ありくん、ありくん、きみはだれ? ぼくのなまえは さぶろうだけど

ありくん、ありくん、きみはだれ? 

ありくん、ありくん、ここはどこ? にんげんでいえば にっぽんだけど

ありくん、ありくん、ここはどこ?」

神さまの目からすれば、人間は蟻のように小さく、忙しく動き回り、縄張り争いをしているかのように見えるのかもしれません。しかしそんな蟻のような人間を、神は慈しみの目を持って見詰め、育てておられるのです。この世にあっては「これは自分のもの」「ここは自分の国」」と主張することが、私たちには大きな関心事です。しかし、この世の全てのものは、神さまが造られ、神のものでした。もともとどこにも国境の線引きはありませんでした。だから、みんな神さまを創造主として仰ぐ、兄弟姉妹です。あらゆる被造物に「兄弟なる太陽よ、姉妹なる月よ」と呼びかけたアシジの聖フランシスコに倣いたいものです。聖フランシスコは、今日の聖書のことばを、人間同士にとどまらず、この世のすべての被造物に対しても兄弟姉妹とみる生き方をしました。それで平和の使者と呼ばれています。