2023年11月24日金曜日

聖書のことば 12月号

 

末蘆館での収穫祭 10月


聖句

「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」( ルカによる福音書2章:14節)

 

クリスマスと神の国


 唐津カトリック幼稚園 園長   江夏國彦

  クリスマスの月になったというのに世界に起きている二つの戦争はまだ終わりそうもありません。「今までに戦争のなかった世紀はない」と言われる世界の現実を前にして「神の国」など夢物語のようにしか思われるかもしれません。クリスマスはメルヘンチックでお祭りのような年中行事にしか映らないのでしょうか。

 しかしイエス・キリストが誕生した時代の人々は、いつか神が支配する国、神を中心にした国を政治的権力と力の支配によって建設する人物が現れて、争いのない平和で幸せな時代が来ると考えていました。これが、当時の人々の神の国にたいする考え方です。長い間、圧政に苦しんでいた人々は苦しみから解放されることを願っていたのです。しかも多くの人々がイエスこそ将来、神の国を建設してくれる人物ではないだろうかと期待していたのです。しかし、そうなることを望んでいない人々もいました。当時の為政者たちは、神の国が実現することは、自分たちの政治的な有利な地位が奪われるかもしれないと危惧していたからです。

 だから当時の為政者たちが、神の国はいつ来るのかとイエスに尋ねたのです。「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」とイエスは答えられました。神の国は、最高主権者としての神の支配する国を言いますが、いつ来るのか、どこに来るのかと言うようなものではありません。いつなのかという問いは、時間的な問いです。どこに来るのかという問いは場所的な問いです。神の国は、時間的な国でもなく、場所的な国でもありません。

神の霊である聖霊が思いのままに働かれるとき、時間も場所も超えて、いつでもどこでも神の国が私たちの間に到来しているとイエスは教えられたのです。イエスの弟子であった聖パウロは「神の国は、聖霊によって与えられる神の義と平和と喜びです。」(ロマ書:14:17)と述べています。

  クリスマスの出来事は、まさに神の霊が思いのままに働かれ、一人の乙女マリアが聖霊によって身ごもるという、神の不思議な業が行われたのです。それは人類救済という神の愛と義の実現に向けての始まりでした。この大きな喜びの出来事は神がなされた神の国の実現の一つなのです。

 クリスマスは神の国の実現であり、始まりです。この幼子をメシア(救い主)と信じ、受け入れる者にとっては神の国がいかにこの世の国とは違う国であるかを思い知らされるのです。時間的観念も場所的観念も超えて、神の国の完成の日に向けて、この幼子に導かれ、共に喜びと希望を抱いて生きる時代が到来し、始まった日がクリスマスなのです。


 

2023年10月27日金曜日

聖書のことば 11月号


 聖 句

イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音書18章2節~3節)


モンテッソーリ教育法の三つの要素

唐津カトリック幼稚園 園長  江夏 國彦

 幼児教育に限らず教育のためには次の三つの要素が重要です。「場所」、「道具」、「指導者」の三つです。モンテッソーリ教育法においても「環境」、「教具」、「教員」の三つの要素が重要とされています。しかしモンテッソーリ教育法におけるこの各要素の考え方、捉え方は、普通の学校教育における場合と根本的に違いがあります。

 イタリアのマリア・モンテッソーリ医学博士は、幼児期における人間の発達の仕方を医学的、児童心理学的な研究に基づいて見直した結果、いままでの幼児教育の仕方と違う教育方法を編み出したのです。

 第一の要素の「場所」は普通の学校教育の場合「学校」です。それに対してモンテッソーリ教育法では「環境」です。「環境」の意味は、場所的なことではなく、子どもが自ら教具を選べる環境、興味を持つような教具をそろえてある環境、いろいろなクラス編成ができて、かつ社会性や協調性が促される環境、そして子供一人ひとりの発達段階に応じた環境をいいます。

 第二の要素である「道具」は、普通の学校教育の場合、教科書やパソコンやその他多くがありますが、モンテッソーリ教育法では「教具」です。どの教具もそれぞれ意図をもって造くられており、子供は見たり、聞いたりだけではなく、いろいろな教具を実際に触わったり、切ったり、貼ったり、組み立てたりして、身体全体を使って学び興味を追求する活動のための道具です。

 第三の要素である「指導者」は普通の学校教育では「教師」であり、教え導くことに焦点を当てられます。モンテッソーリ教育では「教員」です。その役割は学校教育での一般的な教師とは異なります。モンテッソーリ教育の教員は、子どもの成長を「見守る」ことに焦点をあてます。教え導くことよりも、選択肢を与えて自ら選び、学び、成長する過程を支えるのです。あくまでも子供の自主性を尊重し、見守りながら子供たちに何が必要かを注意深く観察し、必要と思われるときのみ適切な指導をします。ですから、教員も絶えず、研修会や日々の現場で学ぶ必要があるのです。国際モンテッソーリ協会や日本モンテッソーリ協会という組織団体があり、この教育法の教員資格も確立されています。

 この教育法が考案されて100年以上たちます。今では世界の各地で採用されて、この教育法で育った有名人や国際的に活躍している人が多く輩出しています。幼児教育にとって、この教育方法の最も優れている点は、子供が自分の興味や発達段階に応じて、自由に活動を選ぶことが重視されていることだと私は思っています。選べるようになることは、子供の自主性や自信を育てるとともに、学習意欲や集中力を高める効果があります。そのことはさらに、創造性や協調性、社会性へと広がってゆくのではないかと思っています。さらに大人になってからは自主性、積極性だけでなく、自分で選んでしたことに自分で責任を取れる人間になることが期待されます。


2023年9月28日木曜日

聖書のことば 10月号


 

いわぎきょう

聖句

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。 たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」(旧約聖書イザヤ書4915節)

 

絵本の読み聞かせ

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦 

秋の夜長の季節になりました。読書の秋でもあります。子育ての親にとって、子供に絵本の読み聞かせをする機会があることでしょう。8月、職員の研修会が熊本であり、私も参加しました。グループに分かれて分かち合った時、福岡の幼稚園の或る若い職員が「私は最近、絵本の読み聞かせより、YouTubeで絵本を見せるようにしています。その方が、伝える情報量が多いし、動画だからよりリアルで良いと思っています。」という意見がありました。それには一理ありますが、読み聞かせの良さも忘れてはいけないと思います。言葉を学ぶだけでなく、感情の発達を促し、創造力を高め、想像力も豊かにすると言われています。

 

 どんな人も、人との交わりによって成長するわけですが、人の声を通して、言葉を通して交わることの大切さは、視覚、触覚による交わりの重要さと同様に大切だと思います。母親の声を通して、感情が伝わり、言葉を学び、雰囲気を通して愛情を感じ取ります。親子が一緒に絵本の世界へ入って同じ時間を過ごすことによって集中力も親子の絆も強まるのです。絵本の読み聞かせは、幼児にとって心と頭の成長のためのビタミン剤のようなものだと思います。母と幼子は肌と肌を接触させるスキンシップは毎日あるでしょうが、愛情深く向き合って二人だけの声によるスキンシップはどれほどあるでしょうか。絵本の読み聞かせは、とても良い母と子の声による親密な交わりであり、いつまでも心に残る思い出となるでしょう。

 

 科学の発達した時代ですからYouTubeで絵本を見せるのもたまには良いのかもしれませんが、しかしどんな時代になっても絵本の読み聞かせの良さが色あせることはないでしょう。私たちの園の職員は絵本の読み聞かせをしばしばしています。親が自分の子に読み聞かせをすることは、さらに重要なことだと思っています。それは、パソコンやスマホのメールで交わるのが一般的になっても、手書きの手紙による交わりは亡くなることはないのと同じだと思います。あるいは、市販の粉ミルクでも乳飲み子は育ちますが、母乳で育てることはもっと素晴らしいのと同じだと思います。だから是非、我が子に絵本の読み聞かせをしてください。そして親子の強い、深い絆ができますようにと願っています。忙しい毎日でしょうから、なかなか自分の子と時間かけて親しく向き合うことは難しいのでしょうが、子供は無限の可能性を秘めたかけがえのない存在ですから、時宜にかなった親子の素晴らしい交わりの時をもって欲しいと思います。

 

 この世の全てのものは神さまの造られた被造物です。キリスト者は、神さまを父なる神と呼んでいます。父なる神さまが描いた大自然という絵本を通して神さまは私たちに語りかけ、育て導かれるのです。自然を観察し、賛美し祈る時、神の偉大さ、恵みの豊かさを感じるでしょう。そこから湧き出るインスピレーションがあるかもしれません。神さまは、今月の聖句にあるように、私たちのことを決して忘れることなく、いつも私たちのそばに居て、その絵本の読み聞かせをしてくださる方なのです。

 


2023年8月24日木曜日

聖書のことば 9月号


 

聖 句

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・・信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント人への手紙13章)


いじめについて思う

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 子育てでいつも問題になるのは、いじめの問題です。小学校に上がったころからそれが顕著になります。集団生活は、学びの場でありますが、負の側面も伴います。いじめが起きやすくなるからです。同じクラス、同じ席、同じ班など自分で選べない環境は、とても不自然で窮屈な状況なのです。しかも、いつの間にか見えないランキングもできてしまいます。大人の社会でも、いじめは起きています。


 いじめには、暴力によるいじめと言葉によるいじめがあります。心の中の思いは言葉になり、暴力に発展するのです。言葉によるいじめは、例えば、笑いものにする、無視する、悪口を言うことなどです。その他ネットによるいじめも起きています。いじめは、一般社会のルールのようなものはなく仲間の中だけで通用する掟が作られることが多いです。残念なのは、この掟が絶対であるかのように、いじめを受ける子は考えてしまうことです。しかも近くにいる子供たちに保身的な力が働いて「仲良くしようよ」と言うだけで、効果ある対策がなされません。


 いじめが起きている現場にいる仲裁者も助言者もいじめられている子と同じ状況の中にいるので、同情してくれたことで慰めになっても、根本的な解決を与えられないことが多いのです。本当に必要なのは、通報者です。いじめを見たら、先生や学校、親にまず知らせることです。場合によっては警察に通報する必要があるかもしれません。いじめの加害者は、いじめをしたことを時間が経つと忘れがちですが、被害者はいつまでも心と体の傷は残るのです。いじめは犯罪行為であるという認識が必要です。いじめの問題解決のためには、ケースによってみな違いがあるので、まず状況分析し、同じ悩みを抱える親や有識者と連携して対処することです。


 今日ほど問題視されませんでしたが、昔もいじめはありました。いじめはどうして無くならないのか追及してゆくと、人間とは、社会とは、という大問題を考えることになると思います。キリスト教では、人間の本性について考える時、重大なことの一つとして聖書が教える原罪の問題があります。神さまは人間を善い者として造られたが、原罪によって傷ついた者として生まれてくると書かれています。その結果として、人間はいじめをしたくなる本性と、いじめは悪いことだからやめさせようとする本性とを持っているのです。一人の人間の中に二つの本性が混在しているのです。だから厄介な問題です。人間の本性を考えると、いじめはいつでも、どこでも、どんな時代でも起こり得るでしょう。結局、いじめが起きにくい環境を整える努力を絶えず続けることが大切なのです。教育的にも、法的にも、そして起きにくい工夫を凝らした環境づくりが求められます。怠るといじめをする環境へと流れてゆきます。悪い流れに逆らって、好ましい環境を作ることは、今日の聖句にある「愛」のある心によって可能なのです。もともと善い者として造られた人間はこのような愛し合う関係を作れるし、作るべきです。誰もが大切にされ、互いに助け合い、補い合う社会を目指しましょう。

2023年7月27日木曜日

聖書のことば 8月号

 


聖句

イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(マルコ福音書43032節)

 

褒められて育つ

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 今月の聖句は、天国のたとえ話として語られたものです。蒔かれた種は小さくとも、大きな可能性を秘めています。しかし育て方によって大変違ってきます。幼児の成長も同じです。医学的に言われていることは、子供はできる限り褒めて育てた方が、心だけでなく脳の発達の観点からも良いのです。幼児が何か興味があることを見つけたら、それは子供が成長しようとしている芽生えなのです。時宜を逸せず、褒めながら育てましょう。そこで褒めるときの五つのことを紹介します。

最初に言いたいことは、心をこめて褒めることです。とくに、相手と目を合わせて褒めるなど、態度で示してください。時には頭を撫でたり、抱きしめたりしてスキンシップするのもいいでしょう。

二番目は、子どもが普段していて当たり前のことでも、なるだけ褒めてください。毎回でなくても、たとえば「元気にご挨拶できたね。」「全部食べれてよかったね。」というふうに。いつも前向きに生きる姿勢を育てることだと思います。

三番目は、その場ですぐ褒めることです。たとえば何かお手伝いしてくれたとき「お手伝いしてくれて、ママ、助かるよ。」と、その場で褒めると自主的な行動をするようになります。後になって褒めるのは効果が薄れます。

四番目は、具体的に褒めることです。ただ「頑張ったね。」とか「偉かったね。」ではなく、何を頑張ったのか、何ができたから偉いのか、具体的に褒められた理由がわかることが大切です。

最後に言いたいことは、神さまが褒めているかのような目で見守ることです。 何かをその子ができたとき、神さまはどのように見ておられるのだろう、もし神さまが言葉をかけてくださるとしたらどんな言葉だろうと思い巡らすのです。時にはその子の前で、自分が思ったことをつぶやいてもいいでしょう。子供の成長に対する親の喜び、神さまへの親の感謝の心は、たとえ言葉にしなくても自然と子供の心に伝わります。

言葉で伝えたいときは、神さまが褒めているかのように自分の喜びを伝えましょう。幼児の時から神さまへ心を向ける習慣ができることは心の成長のために素晴らしいことです。それは親にとっては子育てを楽しむこと、自分自身を褒めることにもなるでしょう。子育てに自信を得て、喜びと幸せを感じる日々になるように願っています。

 




2023年6月23日金曜日

聖書のことば 7月号

聖 句

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主(神)から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。・・・主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」(旧約聖書 詩篇121編)

 

生かされている命

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 子供たちにとって、7月は夏休みが待ち遠しい月です。私は、小学生のころ川原で遊んでいて、命拾いしたことがあります。夏休みに、都城市にある「関ノ尾の滝」へ兄弟三人で出かけ、滝の上流の川原で遊んでいたときの出来事です。そこは大きな岩が沢山ありました。山のほうから流れて来る水は滝となって滝壺に落ちるのです。岩と岩との間は小川の水が滝の方に向かってとうとうと流れています。

  私たちは岩から岩へとぴょんぴょん跳ねて、はしゃぎ回っていました。その時、私が乗っていた岩に兄が飛び乗ってきたのです。すると体の小さい私ははじき出されて流れの早い小川に落ちて流され始めたのです。その様子を遠くで見ていたもう一人の兄がすぐ下流のほうへ回って待ち受けて、私を助けてくれました。兄の助けがなかったら、私は水流に押し流されて滝壺に落ちていたかもしれません。今から思うとあの時、神は兄を用いて危機から私を守り、救ってくださったのだと思っています。

若い時は自分の命は自分で生きていると思っていても、実は神に守られ生かされている命であることに気が付かされる時があります。私たちは、神さまの助けなしには一日、一秒たりとも生きてゆけない存在であり、神さまに生かされている命なのです。保育の現場では、子供が怪我したり、発熱したり、お腹の具合が悪くなったりすることがよく起こります。そして子供の生命力の力強さを感じさせられることもしばしばです。体験を通して強くなっていくのです。しかし、人間の力を超えるものもあることを忘れてはなりません。

 人間は自分の力で生きるのだと力んでもいけませんが、単に「神に生かされている」ことに甘んじてしまってもいけません。与えられた資質を十分に発揮して自分の使命を果たすべく「生きる」のです。自分の意志で、自分の力で「生きる」ことを神は求めているのです。そのために「神に守られ生かされている命」だからです。


 



 

2023年5月26日金曜日

聖書のことば 6月



聖 句

神はこれほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(新約聖書 コリントの信徒への第二の手紙110節)


 不安の中に生きる私たち

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 新緑の美しい季節になりました。山菜採りに山に行く機会があるかもしれません。もしかしたら山で突然、野生の動物に出くわすかもしれませんよ。

「クマさんの食前の祈り」という笑い話があります。ある人が森の中でクマとバッタリ出会ってしまいました。こんな場合すぐ逃げないで、クマから目を離なさないほうが良いと聞いていたので、その人はクマの目をじっと見つめていました。すると、クマはうつむいて、目をつむってしまいました。安心して見ていると、しばらくしてからクマは再び頭を上げて言いました。「最期の祈りは済んだかい?こっちの食前の祈りは終わったぞ。」実際にクマに襲われたというNHKのニュースがありました。先月末、北海道・朱鞠内湖(しゅまりないこ)で釣りをしていた50代の男性が被害にあったのです。

動物が与える危害もさることながら、野望と悪意を持った人間が与える危害は、もっとたちが悪く争いや詐欺による被害は後を絶たない現実があります。この世界は何が起こるかわからない危険に満ちた世界です。外からの危険だけでなく、心の弱い私たちは、内からも忍び寄る危険にも晒されます。時には永遠の滅びへといざなわれることもあるのです。しかも将来の見通しが立たない世界。私たちは今、そういう世界に生きているのです。どうしたら不安を乗り越えて生きて行けるのでしょうか。

人の一生はなんと危険に満ちていることでしょう。愛する子の平穏で健やかな成長を願う親は、自ずと神さまの御加護を願うことでしょう。それが人間の本来の姿です。どんな不安の時も神に委ねましょう。冒頭の聖句は、神に助けられたと思える体験を何度もした人のことばです。私たちに大きな慰めと希望を与えてくれます。

自分で選んで決めたことの結果は自分で責任を取るべきです。同様に、神に委ねたことの結果は神が受け止め、神が責任を取ってくださると信じるべきです。たとえその結果が自分の望みと違ったとしても、受け入れる覚悟で神に委ねるべきです。何故なら、いつの日か最終的には必ず「良い結果を得た」と思える日が来るからです。神は慈しみ深い方なのです。

旧約聖書に「我々は人の手にではなく、主(神)の手に委ねよう。主(神)はその偉大さに劣らず、慈しみをもっておられるから。」(シラ書218)と書かれています。どんな不安な時も、きのうも、今日も、そしてこれからも変わらない永遠の愛であり、慈しみ深い神に委ねて生きる人は幸いです。