聖書のことば 4月号


聖 句
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章:34節)


続‐子育ての基本的心得

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦
 美しい花々が咲き乱れる春のうららかな日に、嬉々として新園児たちが登園してくる姿を見るのは、幼児教育に携わる者に取って、最も希望に満ちた喜ばしい光景です。今年も職員一同、喜びのうちにお迎えしたいと思います。

 純粋で愛らしい子どもたちが、全国各地で親の虐待を受けていることが、時々明るみに出ます。先月は逆に大学生の息子が両親を殺害した事件が鳥栖市で起きました。最も愛し合っているはずの親子が、双方とも人間として未熟のためにこのような痛ましい出来事が起きたのでしょう。両親を殺害したとされる大学生(19)の裁判員裁判が3月7日、佐賀地裁で開かれました。判決は9月に言い渡される予定です。日頃から両親から、行き過ぎた教育パパ、教育ママならぬ教育虐待を受けていたとのことです。
 悲しい思いになると同時に、私自身、保育、教育に携わる者として、幼児教育の重要さと日々の自分の考えや行動を見つめ直す必要があると思っています。

 それにしても、もし、私が2月号のブロク「おむすび」で書いた「子育ての基本的心得」があれば、決してこのような事件は起こり得なかったと思います。ブログで三つの事を述べました。簡潔にもう一度、箇条書きしたいと思います。大切な子どもたちのために、読んでほしいと思います。

1, 子どもは神からの預かり者であり、自分の芸術作品のように思ってはなりません。
2, 子どもには神さまから受けた使命があり、自分の願いを押し付けてはなりません。親はそれを果たす事ができるように助ける役割と責任があります。
3, 誰でも生きてゆく事自体が大変なことです。お互いに愛し合うことによって、親は子に寄り添いながら良き同伴者となることが求められます。その事によって親も子も共に成長するのです。

 どのような人間関係も本当に愛する心がなければ、その関係は、いつ壊れるかもしれません。人間は神に愛された者であることの自覚がなければ、人間の憎愛は、極端から極端へ揺れ動くものだから壊れやすいのです。



聖書のことば 3月号

 


聖 句

「主(神)は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。 御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。 」(旧約聖書 詩篇33:13~15)


子どもをよく観察しながら

親も共に成長しましょう

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 子どもを授かると誰でも思うことは、喜びだけでなく、自分と同じように人格を持った人間を自分に、その生命も人間としての成長も、その他様々なことを委ねられていることの不思議さと責任感だといいます。そんな思いで子どもを見つめていると自分が幼かった頃のことを思い出すのです。多くのことは既に忘れてしまったとはいえ、いつの間にか大人として成長し、現在があることを実感するのです。どのようなプロセスを経て成長したのか気がつかないままで現在に至っていることに驚かれるかもしれません。

 この忘れてしまった、あるいは意識すらしなかった成長のプロセスを再発見する歩みは、子どもと共に成長することではないでしょうか。これは大変なことですが、子育ての楽しみの始まりでもあり、自分のさらなる成長の始まりでもあるかもしれません。

 マリア・モンテッソーリは、イタリアの医師であり教育家でした。彼女は、精神病院で障害のある子どもたちの治療・教育に携わり、子どもたちをよく観察することから治療を始めました。その結果、子どもたちから、多くの大事なことを学び、成果をあげました。その後、健常児にも同じ教育法を適用し、最初の「子どもの家」を設立し、子どもを科学的に観察することによって、子どもには自分を育てる力が備わっているという「自己教育力」の存在に気づいたのでした。素晴らしい観察力だと思います。

 さて、一つの例として、子どもが「いや!」と言ったら、どのように受け止めますか。もっと素直な子になって欲しいという思いだけでなく、どこか心の奥には、自己主張ができるようになったのだという思いもあるでしょうか。これは、子どもが独り立ちを始めた証拠、自分は親とは違う人間であることに目覚め始めた証でもあるのです。このような肯定的な受けとめもできているでしょうか。

 では、この例での「いや!」にはどんな思いが込められているのでしょうか。状況によって、様々な事が考えられると思います。状況に適した判断ができるようになるには、常日頃、子どもをよく観察している必要があるのです。まさに、観察力が試されることになります。

 さて、どんな意味が込められているケースがあるでしょうか。いくつかのケースを考えてみましょう。

① 大人の反応を見ている場合があます。子どもは、大人の押しつけではないかという感情から反射的に「いや!」といって、大人がどのような反応をするか見ているのです。大人の期待が大きすぎたり、言葉が強すぎたりした場合によくあることです。

② 失敗を繰り返し体験している場合によく見られます。自分にはまだできないのですという強い意思表示の場合が考えられます。

③ できるかもしれないという思いがあっても、やってみる勇気がない場合もあります。

④ ただ感情的になんとなく、やるのが嫌いと言っている場合があります。

この他にも違うケースもあることでしょう。大事なのは、子どもをよく観察し、適切な反応と状況に応じて時宜にかなった対処ができるようになることです。子どもであっても人格を持った一人の人間として対応することは、自分自身の成長にもつながることだと思います。子どもも親や大人たちを無意識のうちに観察し、良いことも悪いことも学んで成長するのです。今日の聖句にあるように、神さまも私たちをよく観察し、育てておられるのですから。

 以上、子育ては、観察力を身につけることが大切であることを述べてみました。


聖書のことば 2月号

 

聖 句

「私たちの神様は、なんとすばらしいお方でしょう。神様は主イエス・キリストの父であり、あらゆる慈愛の源です。そして、私たちが苦しみや困難にあえいでいる時、慰めと励ましを与えてくださるお方です。それは、苦しみの中にあって慰めと励ましを必要としている人々に、私たちも、神から受ける助けと慰めを与えることができるためです。」(聖パウロのコリント人への手紙 Ⅱ 1:3-6)


子育ての基本的心得

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 今月は、子育ての一番大切な基本について考えて見たいと思います。親は目先のことばかりに心を奪われて、子育てで最も大切なことを見失ってしまいがちです。そこで、3つの子育て基本となる心得について考えてみましょう。そんなことを考える心の余裕も時間もないことが多いのかもしれませんがわかっていると思うことであっても、時々基本に立ち返る必要があると思います。


 その1.子供は自分の者という思いではなく、神様からの預かり者という子育ての基本を忘れがちになっていませんか。自分の子供への可愛さのあまり、まるで自分の芸術作品のように子供を見てしまって、自慢したり、がっかりしたり、親の心は浮き沈みしていませんか。子供は神様との共同作品であることを時々思い起こしましょう。いずれ子供は独り立ちするのです。その日のことを思い、目先のことだけに気を奪われないようにしましょう。


 その2.どんな人間でも無意識のうちに他人との比較で自分を見てしまいます。だからどうしても子育ての親も、他の兄弟や親戚の子供やお友達と比較してしまいます。しかし、子供は、神さまが与えた他の人と違う使命を持って生まれています。そして他の子と違うユニークさや個性を持っています。それらを大切にしたいものです。将来、その子に与えられた使命を親もまだよくわかりません。親は子が自分の使命を果たすための助け手となるべきなのに、いつの間にか自分の望みを押し付け、実現させようとしていませんか。この子の使命は何なのか子供と共に親も考え、一人の人格者としてその子を見つめ、尊敬の念で接する心を失っていませんか。


 その3.どんな人にとっても生きてゆくこと自体が大変なことです。必ず何らかの困難や苦しみが伴います。子供の教育の現場も、社会にも厳しさがあります。社会の中では、管理され、成果を求められ、評価されます。子供たちも次第にこのような環境の中に入れられてゆきます。人権無視の劣悪な社会状況以外は別にして、普通の社会環境での困難は、生きてゆくための試練であり、育ってゆくために必要なことですが、ときには本人にとって超えられない困難もあるものです。学業や交友関係などで子供が直面する困難にたいして、励まし、寄り添う接し方ができているでしょうか。子供にとって今直面している困難は何なのか理解を得るためには、良き聴き手になることが必要です。忙しさにかまけて子供の悩みをよく聴くこともなく、直感や想像だけで判断し、間違った思い込みになっていませんか。

 しかし、良き対話ができていても乗り越えることができない場合もあります。親子だけで悩むより、先生、あるいは信頼できる誰かに相談することも良いことです。そして同時に、心の内には神の助けをいつも願うことが最も人間らしい姿であると思います。なぜなら人間の力だけでは解決できない問題もあることを知ることは、困難や苦しみを、異なる次元で考えるようになるからです。つまり、人間側からだけでなく、神様の側から見た次元でも考えることになるのです。両方の側の立場から考えることは、直面している問題が違って見えてくることでしょう。

 だからといって解決できるわけではないかもしれませんが、少なくとも広い視野での理解が深まり、同じような問題で苦しむ人々との共有の絆が強められ、神の慰めを得るのです。人間が望んでいるような解決が与えられなくても、生きる力が湧いてくるのではないでしょうか。何故なら上記の聖句に書かれているように、神様は、いつも苦しむ者の味方であり、慰め、力づける方だからです。

 以上、子育ての3つの基本的心得について述べましたが、参考になれば幸いです。



聖書のことば 1月号

 


聖句

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(聖書 フィリピ人への手紙 3:10-11

 

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

明けましておめでとうございます。新年も幸多い年になりますように。

幼児期の一年間の子供たちの成長は、目覚ましいものがあります。今年もまた、元気いっぱいの子供たちと学び、人生の歩みを共にするのは楽しみです。同時に、年老いた私にとっては、この世での命が始まって間もない子供たちが愛おしくてなりません。何故なら、わたしのこの世での生活の大半は過ぎ去ったからです。

そして死後の世界と復活を信じる者はだれでも、この世からあの世へと通過するときの神秘を色々と想像するのです。この世に私が生まれ落ちた時、私を愛してくれた人々がいたこと、そして今までの世界と誕生後の世界は全く違ったものであることを医学は教えてくれます。しかし誕生前の世界の神秘を医者も完全にわかっているわけではありません。

 

そこで、この世の命の世界から死を超えた命の世界へと変遷する神秘を、人の命の誕生のときのイメージで捉えて、想像してみましょう。

母親の胎内に命が宿ったとき、その胎児は、目も見えず、外界にも触れられず、この世を知りません。羊水の中で小さな体に流れ込んでくる栄養を母親から充分貰いながら成長し、生きています。そこは保護され、幸せで安全な世界です。けれども時が来れば、そこを去らなければなりません。その心地よい世界を去るということは、その子にとっては死を意味します。その死を迎えた瞬間、その出来事は死ではなく新しい命の誕生だったのです。その時、大きな喜びに包まれるのです。

 

 母の懐に抱かれた嬰児は知るでしょう。羊水に浮かんでいた時に、どこからかいつも聞こえて来た微かな声は、この人だったのだ、胎内にいる自分に毎日のように伝わってきた振動と時々さする音は、この方の手だったのだ。そして外の世界からの「愛情」というサインだったのだ。自分はあの前の世界、胎内で、生きるために必要なもの全てをこの方から貰っていたのだと。その胸の中で安心して、顔と顔を向き合わせながら、以前羊水の中で栄養分を貰ってきたように又、溢れ出る「おちち」を吸うのです。胎児でいる間は、慈しみ育ててくれている母の存在を本能的に知っているかもしれませんが、はっきりと意識することはなかったでしょう。しかし、生まれ出た後は、その方をはっきりと知る日が来るのです。

 聖パウロは信仰によって、神はこの世を超える次元においても新しい命を与えてくださると述べています。この世での命の誕生を喜んだように、さまざまな苦しみを潜り抜けた後に迎える新しい命の誕生である復活をも喜ぶのです。新年は、新しい命への一里塚であり、思いを新たにして人生の歩みを継続し、恵み深い神に感謝を捧げましょう。

 


聖書のことば 12月号

 

末蘆館での収穫祭 10月


聖句

「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」( ルカによる福音書2章:14節)

 

クリスマスと神の国


 唐津カトリック幼稚園 園長   江夏國彦

  クリスマスの月になったというのに世界に起きている二つの戦争はまだ終わりそうもありません。「今までに戦争のなかった世紀はない」と言われる世界の現実を前にして「神の国」など夢物語のようにしか思われるかもしれません。クリスマスはメルヘンチックでお祭りのような年中行事にしか映らないのでしょうか。

 しかしイエス・キリストが誕生した時代の人々は、いつか神が支配する国、神を中心にした国を政治的権力と力の支配によって建設する人物が現れて、争いのない平和で幸せな時代が来ると考えていました。これが、当時の人々の神の国にたいする考え方です。長い間、圧政に苦しんでいた人々は苦しみから解放されることを願っていたのです。しかも多くの人々がイエスこそ将来、神の国を建設してくれる人物ではないだろうかと期待していたのです。しかし、そうなることを望んでいない人々もいました。当時の為政者たちは、神の国が実現することは、自分たちの政治的な有利な地位が奪われるかもしれないと危惧していたからです。

 だから当時の為政者たちが、神の国はいつ来るのかとイエスに尋ねたのです。「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」とイエスは答えられました。神の国は、最高主権者としての神の支配する国を言いますが、いつ来るのか、どこに来るのかと言うようなものではありません。いつなのかという問いは、時間的な問いです。どこに来るのかという問いは場所的な問いです。神の国は、時間的な国でもなく、場所的な国でもありません。

神の霊である聖霊が思いのままに働かれるとき、時間も場所も超えて、いつでもどこでも神の国が私たちの間に到来しているとイエスは教えられたのです。イエスの弟子であった聖パウロは「神の国は、聖霊によって与えられる神の義と平和と喜びです。」(ロマ書:14:17)と述べています。

  クリスマスの出来事は、まさに神の霊が思いのままに働かれ、一人の乙女マリアが聖霊によって身ごもるという、神の不思議な業が行われたのです。それは人類救済という神の愛と義の実現に向けての始まりでした。この大きな喜びの出来事は神がなされた神の国の実現の一つなのです。

 クリスマスは神の国の実現であり、始まりです。この幼子をメシア(救い主)と信じ、受け入れる者にとっては神の国がいかにこの世の国とは違う国であるかを思い知らされるのです。時間的観念も場所的観念も超えて、神の国の完成の日に向けて、この幼子に導かれ、共に喜びと希望を抱いて生きる時代が到来し、始まった日がクリスマスなのです。


 

聖書のことば 11月号


 聖 句

イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音書18章2節~3節)


モンテッソーリ教育法の三つの要素

唐津カトリック幼稚園 園長  江夏 國彦

 幼児教育に限らず教育のためには次の三つの要素が重要です。「場所」、「道具」、「指導者」の三つです。モンテッソーリ教育法においても「環境」、「教具」、「教員」の三つの要素が重要とされています。しかしモンテッソーリ教育法におけるこの各要素の考え方、捉え方は、普通の学校教育における場合と根本的に違いがあります。

 イタリアのマリア・モンテッソーリ医学博士は、幼児期における人間の発達の仕方を医学的、児童心理学的な研究に基づいて見直した結果、いままでの幼児教育の仕方と違う教育方法を編み出したのです。

 第一の要素の「場所」は普通の学校教育の場合「学校」です。それに対してモンテッソーリ教育法では「環境」です。「環境」の意味は、場所的なことではなく、子どもが自ら教具を選べる環境、興味を持つような教具をそろえてある環境、いろいろなクラス編成ができて、かつ社会性や協調性が促される環境、そして子供一人ひとりの発達段階に応じた環境をいいます。

 第二の要素である「道具」は、普通の学校教育の場合、教科書やパソコンやその他多くがありますが、モンテッソーリ教育法では「教具」です。どの教具もそれぞれ意図をもって造くられており、子供は見たり、聞いたりだけではなく、いろいろな教具を実際に触わったり、切ったり、貼ったり、組み立てたりして、身体全体を使って学び興味を追求する活動のための道具です。

 第三の要素である「指導者」は普通の学校教育では「教師」であり、教え導くことに焦点を当てられます。モンテッソーリ教育では「教員」です。その役割は学校教育での一般的な教師とは異なります。モンテッソーリ教育の教員は、子どもの成長を「見守る」ことに焦点をあてます。教え導くことよりも、選択肢を与えて自ら選び、学び、成長する過程を支えるのです。あくまでも子供の自主性を尊重し、見守りながら子供たちに何が必要かを注意深く観察し、必要と思われるときのみ適切な指導をします。ですから、教員も絶えず、研修会や日々の現場で学ぶ必要があるのです。国際モンテッソーリ協会や日本モンテッソーリ協会という組織団体があり、この教育法の教員資格も確立されています。

 この教育法が考案されて100年以上たちます。今では世界の各地で採用されて、この教育法で育った有名人や国際的に活躍している人が多く輩出しています。幼児教育にとって、この教育方法の最も優れている点は、子供が自分の興味や発達段階に応じて、自由に活動を選ぶことが重視されていることだと私は思っています。選べるようになることは、子供の自主性や自信を育てるとともに、学習意欲や集中力を高める効果があります。そのことはさらに、創造性や協調性、社会性へと広がってゆくのではないかと思っています。さらに大人になってからは自主性、積極性だけでなく、自分で選んでしたことに自分で責任を取れる人間になることが期待されます。


聖書のことば 10月号


 

いわぎきょう

聖句

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。 たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」(旧約聖書イザヤ書4915節)

 

絵本の読み聞かせ

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦 

秋の夜長の季節になりました。読書の秋でもあります。子育ての親にとって、子供に絵本の読み聞かせをする機会があることでしょう。8月、職員の研修会が熊本であり、私も参加しました。グループに分かれて分かち合った時、福岡の幼稚園の或る若い職員が「私は最近、絵本の読み聞かせより、YouTubeで絵本を見せるようにしています。その方が、伝える情報量が多いし、動画だからよりリアルで良いと思っています。」という意見がありました。それには一理ありますが、読み聞かせの良さも忘れてはいけないと思います。言葉を学ぶだけでなく、感情の発達を促し、創造力を高め、想像力も豊かにすると言われています。

 

 どんな人も、人との交わりによって成長するわけですが、人の声を通して、言葉を通して交わることの大切さは、視覚、触覚による交わりの重要さと同様に大切だと思います。母親の声を通して、感情が伝わり、言葉を学び、雰囲気を通して愛情を感じ取ります。親子が一緒に絵本の世界へ入って同じ時間を過ごすことによって集中力も親子の絆も強まるのです。絵本の読み聞かせは、幼児にとって心と頭の成長のためのビタミン剤のようなものだと思います。母と幼子は肌と肌を接触させるスキンシップは毎日あるでしょうが、愛情深く向き合って二人だけの声によるスキンシップはどれほどあるでしょうか。絵本の読み聞かせは、とても良い母と子の声による親密な交わりであり、いつまでも心に残る思い出となるでしょう。

 

 科学の発達した時代ですからYouTubeで絵本を見せるのもたまには良いのかもしれませんが、しかしどんな時代になっても絵本の読み聞かせの良さが色あせることはないでしょう。私たちの園の職員は絵本の読み聞かせをしばしばしています。親が自分の子に読み聞かせをすることは、さらに重要なことだと思っています。それは、パソコンやスマホのメールで交わるのが一般的になっても、手書きの手紙による交わりは亡くなることはないのと同じだと思います。あるいは、市販の粉ミルクでも乳飲み子は育ちますが、母乳で育てることはもっと素晴らしいのと同じだと思います。だから是非、我が子に絵本の読み聞かせをしてください。そして親子の強い、深い絆ができますようにと願っています。忙しい毎日でしょうから、なかなか自分の子と時間かけて親しく向き合うことは難しいのでしょうが、子供は無限の可能性を秘めたかけがえのない存在ですから、時宜にかなった親子の素晴らしい交わりの時をもって欲しいと思います。

 

 この世の全てのものは神さまの造られた被造物です。キリスト者は、神さまを父なる神と呼んでいます。父なる神さまが描いた大自然という絵本を通して神さまは私たちに語りかけ、育て導かれるのです。自然を観察し、賛美し祈る時、神の偉大さ、恵みの豊かさを感じるでしょう。そこから湧き出るインスピレーションがあるかもしれません。神さまは、今月の聖句にあるように、私たちのことを決して忘れることなく、いつも私たちのそばに居て、その絵本の読み聞かせをしてくださる方なのです。