聖書のことば 1月号

 


聖句

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(聖書 フィリピ人への手紙 3:10-11

 

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

明けましておめでとうございます。新年も幸多い年になりますように。

幼児期の一年間の子供たちの成長は、目覚ましいものがあります。今年もまた、元気いっぱいの子供たちと学び、人生の歩みを共にするのは楽しみです。同時に、年老いた私にとっては、この世での命が始まって間もない子供たちが愛おしくてなりません。何故なら、わたしのこの世での生活の大半は過ぎ去ったからです。

そして死後の世界と復活を信じる者はだれでも、この世からあの世へと通過するときの神秘を色々と想像するのです。この世に私が生まれ落ちた時、私を愛してくれた人々がいたこと、そして今までの世界と誕生後の世界は全く違ったものであることを医学は教えてくれます。しかし誕生前の世界の神秘を医者も完全にわかっているわけではありません。

 

そこで、この世の命の世界から死を超えた命の世界へと変遷する神秘を、人の命の誕生のときのイメージで捉えて、想像してみましょう。

母親の胎内に命が宿ったとき、その胎児は、目も見えず、外界にも触れられず、この世を知りません。羊水の中で小さな体に流れ込んでくる栄養を母親から充分貰いながら成長し、生きています。そこは保護され、幸せで安全な世界です。けれども時が来れば、そこを去らなければなりません。その心地よい世界を去るということは、その子にとっては死を意味します。その死を迎えた瞬間、その出来事は死ではなく新しい命の誕生だったのです。その時、大きな喜びに包まれるのです。

 

 母の懐に抱かれた嬰児は知るでしょう。羊水に浮かんでいた時に、どこからかいつも聞こえて来た微かな声は、この人だったのだ、胎内にいる自分に毎日のように伝わってきた振動と時々さする音は、この方の手だったのだ。そして外の世界からの「愛情」というサインだったのだ。自分はあの前の世界、胎内で、生きるために必要なもの全てをこの方から貰っていたのだと。その胸の中で安心して、顔と顔を向き合わせながら、以前羊水の中で栄養分を貰ってきたように又、溢れ出る「おちち」を吸うのです。胎児でいる間は、慈しみ育ててくれている母の存在を本能的に知っているかもしれませんが、はっきりと意識することはなかったでしょう。しかし、生まれ出た後は、その方をはっきりと知る日が来るのです。

 聖パウロは信仰によって、神はこの世を超える次元においても新しい命を与えてくださると述べています。この世での命の誕生を喜んだように、さまざまな苦しみを潜り抜けた後に迎える新しい命の誕生である復活をも喜ぶのです。新年は、新しい命への一里塚であり、思いを新たにして人生の歩みを継続し、恵み深い神に感謝を捧げましょう。

 


聖書のことば 12月号

 

末蘆館での収穫祭 10月


聖句

「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」( ルカによる福音書2章:14節)

 

クリスマスと神の国


 唐津カトリック幼稚園 園長   江夏國彦

  クリスマスの月になったというのに世界に起きている二つの戦争はまだ終わりそうもありません。「今までに戦争のなかった世紀はない」と言われる世界の現実を前にして「神の国」など夢物語のようにしか思われるかもしれません。クリスマスはメルヘンチックでお祭りのような年中行事にしか映らないのでしょうか。

 しかしイエス・キリストが誕生した時代の人々は、いつか神が支配する国、神を中心にした国を政治的権力と力の支配によって建設する人物が現れて、争いのない平和で幸せな時代が来ると考えていました。これが、当時の人々の神の国にたいする考え方です。長い間、圧政に苦しんでいた人々は苦しみから解放されることを願っていたのです。しかも多くの人々がイエスこそ将来、神の国を建設してくれる人物ではないだろうかと期待していたのです。しかし、そうなることを望んでいない人々もいました。当時の為政者たちは、神の国が実現することは、自分たちの政治的な有利な地位が奪われるかもしれないと危惧していたからです。

 だから当時の為政者たちが、神の国はいつ来るのかとイエスに尋ねたのです。「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」とイエスは答えられました。神の国は、最高主権者としての神の支配する国を言いますが、いつ来るのか、どこに来るのかと言うようなものではありません。いつなのかという問いは、時間的な問いです。どこに来るのかという問いは場所的な問いです。神の国は、時間的な国でもなく、場所的な国でもありません。

神の霊である聖霊が思いのままに働かれるとき、時間も場所も超えて、いつでもどこでも神の国が私たちの間に到来しているとイエスは教えられたのです。イエスの弟子であった聖パウロは「神の国は、聖霊によって与えられる神の義と平和と喜びです。」(ロマ書:14:17)と述べています。

  クリスマスの出来事は、まさに神の霊が思いのままに働かれ、一人の乙女マリアが聖霊によって身ごもるという、神の不思議な業が行われたのです。それは人類救済という神の愛と義の実現に向けての始まりでした。この大きな喜びの出来事は神がなされた神の国の実現の一つなのです。

 クリスマスは神の国の実現であり、始まりです。この幼子をメシア(救い主)と信じ、受け入れる者にとっては神の国がいかにこの世の国とは違う国であるかを思い知らされるのです。時間的観念も場所的観念も超えて、神の国の完成の日に向けて、この幼子に導かれ、共に喜びと希望を抱いて生きる時代が到来し、始まった日がクリスマスなのです。


 

聖書のことば 11月号


 聖 句

イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音書18章2節~3節)


モンテッソーリ教育法の三つの要素

唐津カトリック幼稚園 園長  江夏 國彦

 幼児教育に限らず教育のためには次の三つの要素が重要です。「場所」、「道具」、「指導者」の三つです。モンテッソーリ教育法においても「環境」、「教具」、「教員」の三つの要素が重要とされています。しかしモンテッソーリ教育法におけるこの各要素の考え方、捉え方は、普通の学校教育における場合と根本的に違いがあります。

 イタリアのマリア・モンテッソーリ医学博士は、幼児期における人間の発達の仕方を医学的、児童心理学的な研究に基づいて見直した結果、いままでの幼児教育の仕方と違う教育方法を編み出したのです。

 第一の要素の「場所」は普通の学校教育の場合「学校」です。それに対してモンテッソーリ教育法では「環境」です。「環境」の意味は、場所的なことではなく、子どもが自ら教具を選べる環境、興味を持つような教具をそろえてある環境、いろいろなクラス編成ができて、かつ社会性や協調性が促される環境、そして子供一人ひとりの発達段階に応じた環境をいいます。

 第二の要素である「道具」は、普通の学校教育の場合、教科書やパソコンやその他多くがありますが、モンテッソーリ教育法では「教具」です。どの教具もそれぞれ意図をもって造くられており、子供は見たり、聞いたりだけではなく、いろいろな教具を実際に触わったり、切ったり、貼ったり、組み立てたりして、身体全体を使って学び興味を追求する活動のための道具です。

 第三の要素である「指導者」は普通の学校教育では「教師」であり、教え導くことに焦点を当てられます。モンテッソーリ教育では「教員」です。その役割は学校教育での一般的な教師とは異なります。モンテッソーリ教育の教員は、子どもの成長を「見守る」ことに焦点をあてます。教え導くことよりも、選択肢を与えて自ら選び、学び、成長する過程を支えるのです。あくまでも子供の自主性を尊重し、見守りながら子供たちに何が必要かを注意深く観察し、必要と思われるときのみ適切な指導をします。ですから、教員も絶えず、研修会や日々の現場で学ぶ必要があるのです。国際モンテッソーリ協会や日本モンテッソーリ協会という組織団体があり、この教育法の教員資格も確立されています。

 この教育法が考案されて100年以上たちます。今では世界の各地で採用されて、この教育法で育った有名人や国際的に活躍している人が多く輩出しています。幼児教育にとって、この教育方法の最も優れている点は、子供が自分の興味や発達段階に応じて、自由に活動を選ぶことが重視されていることだと私は思っています。選べるようになることは、子供の自主性や自信を育てるとともに、学習意欲や集中力を高める効果があります。そのことはさらに、創造性や協調性、社会性へと広がってゆくのではないかと思っています。さらに大人になってからは自主性、積極性だけでなく、自分で選んでしたことに自分で責任を取れる人間になることが期待されます。


聖書のことば 10月号


 

いわぎきょう

聖句

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。 たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」(旧約聖書イザヤ書4915節)

 

絵本の読み聞かせ

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦 

秋の夜長の季節になりました。読書の秋でもあります。子育ての親にとって、子供に絵本の読み聞かせをする機会があることでしょう。8月、職員の研修会が熊本であり、私も参加しました。グループに分かれて分かち合った時、福岡の幼稚園の或る若い職員が「私は最近、絵本の読み聞かせより、YouTubeで絵本を見せるようにしています。その方が、伝える情報量が多いし、動画だからよりリアルで良いと思っています。」という意見がありました。それには一理ありますが、読み聞かせの良さも忘れてはいけないと思います。言葉を学ぶだけでなく、感情の発達を促し、創造力を高め、想像力も豊かにすると言われています。

 

 どんな人も、人との交わりによって成長するわけですが、人の声を通して、言葉を通して交わることの大切さは、視覚、触覚による交わりの重要さと同様に大切だと思います。母親の声を通して、感情が伝わり、言葉を学び、雰囲気を通して愛情を感じ取ります。親子が一緒に絵本の世界へ入って同じ時間を過ごすことによって集中力も親子の絆も強まるのです。絵本の読み聞かせは、幼児にとって心と頭の成長のためのビタミン剤のようなものだと思います。母と幼子は肌と肌を接触させるスキンシップは毎日あるでしょうが、愛情深く向き合って二人だけの声によるスキンシップはどれほどあるでしょうか。絵本の読み聞かせは、とても良い母と子の声による親密な交わりであり、いつまでも心に残る思い出となるでしょう。

 

 科学の発達した時代ですからYouTubeで絵本を見せるのもたまには良いのかもしれませんが、しかしどんな時代になっても絵本の読み聞かせの良さが色あせることはないでしょう。私たちの園の職員は絵本の読み聞かせをしばしばしています。親が自分の子に読み聞かせをすることは、さらに重要なことだと思っています。それは、パソコンやスマホのメールで交わるのが一般的になっても、手書きの手紙による交わりは亡くなることはないのと同じだと思います。あるいは、市販の粉ミルクでも乳飲み子は育ちますが、母乳で育てることはもっと素晴らしいのと同じだと思います。だから是非、我が子に絵本の読み聞かせをしてください。そして親子の強い、深い絆ができますようにと願っています。忙しい毎日でしょうから、なかなか自分の子と時間かけて親しく向き合うことは難しいのでしょうが、子供は無限の可能性を秘めたかけがえのない存在ですから、時宜にかなった親子の素晴らしい交わりの時をもって欲しいと思います。

 

 この世の全てのものは神さまの造られた被造物です。キリスト者は、神さまを父なる神と呼んでいます。父なる神さまが描いた大自然という絵本を通して神さまは私たちに語りかけ、育て導かれるのです。自然を観察し、賛美し祈る時、神の偉大さ、恵みの豊かさを感じるでしょう。そこから湧き出るインスピレーションがあるかもしれません。神さまは、今月の聖句にあるように、私たちのことを決して忘れることなく、いつも私たちのそばに居て、その絵本の読み聞かせをしてくださる方なのです。

 


聖書のことば 9月号


 

聖 句

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・・信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント人への手紙13章)


いじめについて思う

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 子育てでいつも問題になるのは、いじめの問題です。小学校に上がったころからそれが顕著になります。集団生活は、学びの場でありますが、負の側面も伴います。いじめが起きやすくなるからです。同じクラス、同じ席、同じ班など自分で選べない環境は、とても不自然で窮屈な状況なのです。しかも、いつの間にか見えないランキングもできてしまいます。大人の社会でも、いじめは起きています。


 いじめには、暴力によるいじめと言葉によるいじめがあります。心の中の思いは言葉になり、暴力に発展するのです。言葉によるいじめは、例えば、笑いものにする、無視する、悪口を言うことなどです。その他ネットによるいじめも起きています。いじめは、一般社会のルールのようなものはなく仲間の中だけで通用する掟が作られることが多いです。残念なのは、この掟が絶対であるかのように、いじめを受ける子は考えてしまうことです。しかも近くにいる子供たちに保身的な力が働いて「仲良くしようよ」と言うだけで、効果ある対策がなされません。


 いじめが起きている現場にいる仲裁者も助言者もいじめられている子と同じ状況の中にいるので、同情してくれたことで慰めになっても、根本的な解決を与えられないことが多いのです。本当に必要なのは、通報者です。いじめを見たら、先生や学校、親にまず知らせることです。場合によっては警察に通報する必要があるかもしれません。いじめの加害者は、いじめをしたことを時間が経つと忘れがちですが、被害者はいつまでも心と体の傷は残るのです。いじめは犯罪行為であるという認識が必要です。いじめの問題解決のためには、ケースによってみな違いがあるので、まず状況分析し、同じ悩みを抱える親や有識者と連携して対処することです。


 今日ほど問題視されませんでしたが、昔もいじめはありました。いじめはどうして無くならないのか追及してゆくと、人間とは、社会とは、という大問題を考えることになると思います。キリスト教では、人間の本性について考える時、重大なことの一つとして聖書が教える原罪の問題があります。神さまは人間を善い者として造られたが、原罪によって傷ついた者として生まれてくると書かれています。その結果として、人間はいじめをしたくなる本性と、いじめは悪いことだからやめさせようとする本性とを持っているのです。一人の人間の中に二つの本性が混在しているのです。だから厄介な問題です。人間の本性を考えると、いじめはいつでも、どこでも、どんな時代でも起こり得るでしょう。結局、いじめが起きにくい環境を整える努力を絶えず続けることが大切なのです。教育的にも、法的にも、そして起きにくい工夫を凝らした環境づくりが求められます。怠るといじめをする環境へと流れてゆきます。悪い流れに逆らって、好ましい環境を作ることは、今日の聖句にある「愛」のある心によって可能なのです。もともと善い者として造られた人間はこのような愛し合う関係を作れるし、作るべきです。誰もが大切にされ、互いに助け合い、補い合う社会を目指しましょう。

聖書のことば 8月号

 


聖句

イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」(マルコ福音書43032節)

 

褒められて育つ

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 今月の聖句は、天国のたとえ話として語られたものです。蒔かれた種は小さくとも、大きな可能性を秘めています。しかし育て方によって大変違ってきます。幼児の成長も同じです。医学的に言われていることは、子供はできる限り褒めて育てた方が、心だけでなく脳の発達の観点からも良いのです。幼児が何か興味があることを見つけたら、それは子供が成長しようとしている芽生えなのです。時宜を逸せず、褒めながら育てましょう。そこで褒めるときの五つのことを紹介します。

最初に言いたいことは、心をこめて褒めることです。とくに、相手と目を合わせて褒めるなど、態度で示してください。時には頭を撫でたり、抱きしめたりしてスキンシップするのもいいでしょう。

二番目は、子どもが普段していて当たり前のことでも、なるだけ褒めてください。毎回でなくても、たとえば「元気にご挨拶できたね。」「全部食べれてよかったね。」というふうに。いつも前向きに生きる姿勢を育てることだと思います。

三番目は、その場ですぐ褒めることです。たとえば何かお手伝いしてくれたとき「お手伝いしてくれて、ママ、助かるよ。」と、その場で褒めると自主的な行動をするようになります。後になって褒めるのは効果が薄れます。

四番目は、具体的に褒めることです。ただ「頑張ったね。」とか「偉かったね。」ではなく、何を頑張ったのか、何ができたから偉いのか、具体的に褒められた理由がわかることが大切です。

最後に言いたいことは、神さまが褒めているかのような目で見守ることです。 何かをその子ができたとき、神さまはどのように見ておられるのだろう、もし神さまが言葉をかけてくださるとしたらどんな言葉だろうと思い巡らすのです。時にはその子の前で、自分が思ったことをつぶやいてもいいでしょう。子供の成長に対する親の喜び、神さまへの親の感謝の心は、たとえ言葉にしなくても自然と子供の心に伝わります。

言葉で伝えたいときは、神さまが褒めているかのように自分の喜びを伝えましょう。幼児の時から神さまへ心を向ける習慣ができることは心の成長のために素晴らしいことです。それは親にとっては子育てを楽しむこと、自分自身を褒めることにもなるでしょう。子育てに自信を得て、喜びと幸せを感じる日々になるように願っています。

 




聖書のことば 7月号

聖 句

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主(神)から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。・・・主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」(旧約聖書 詩篇121編)

 

生かされている命

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 子供たちにとって、7月は夏休みが待ち遠しい月です。私は、小学生のころ川原で遊んでいて、命拾いしたことがあります。夏休みに、都城市にある「関ノ尾の滝」へ兄弟三人で出かけ、滝の上流の川原で遊んでいたときの出来事です。そこは大きな岩が沢山ありました。山のほうから流れて来る水は滝となって滝壺に落ちるのです。岩と岩との間は小川の水が滝の方に向かってとうとうと流れています。

  私たちは岩から岩へとぴょんぴょん跳ねて、はしゃぎ回っていました。その時、私が乗っていた岩に兄が飛び乗ってきたのです。すると体の小さい私ははじき出されて流れの早い小川に落ちて流され始めたのです。その様子を遠くで見ていたもう一人の兄がすぐ下流のほうへ回って待ち受けて、私を助けてくれました。兄の助けがなかったら、私は水流に押し流されて滝壺に落ちていたかもしれません。今から思うとあの時、神は兄を用いて危機から私を守り、救ってくださったのだと思っています。

若い時は自分の命は自分で生きていると思っていても、実は神に守られ生かされている命であることに気が付かされる時があります。私たちは、神さまの助けなしには一日、一秒たりとも生きてゆけない存在であり、神さまに生かされている命なのです。保育の現場では、子供が怪我したり、発熱したり、お腹の具合が悪くなったりすることがよく起こります。そして子供の生命力の力強さを感じさせられることもしばしばです。体験を通して強くなっていくのです。しかし、人間の力を超えるものもあることを忘れてはなりません。

 人間は自分の力で生きるのだと力んでもいけませんが、単に「神に生かされている」ことに甘んじてしまってもいけません。与えられた資質を十分に発揮して自分の使命を果たすべく「生きる」のです。自分の意志で、自分の力で「生きる」ことを神は求めているのです。そのために「神に守られ生かされている命」だからです。


 



 

聖書のことば 6月



聖 句

神はこれほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(新約聖書 コリントの信徒への第二の手紙110節)


 不安の中に生きる私たち

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 新緑の美しい季節になりました。山菜採りに山に行く機会があるかもしれません。もしかしたら山で突然、野生の動物に出くわすかもしれませんよ。

「クマさんの食前の祈り」という笑い話があります。ある人が森の中でクマとバッタリ出会ってしまいました。こんな場合すぐ逃げないで、クマから目を離なさないほうが良いと聞いていたので、その人はクマの目をじっと見つめていました。すると、クマはうつむいて、目をつむってしまいました。安心して見ていると、しばらくしてからクマは再び頭を上げて言いました。「最期の祈りは済んだかい?こっちの食前の祈りは終わったぞ。」実際にクマに襲われたというNHKのニュースがありました。先月末、北海道・朱鞠内湖(しゅまりないこ)で釣りをしていた50代の男性が被害にあったのです。

動物が与える危害もさることながら、野望と悪意を持った人間が与える危害は、もっとたちが悪く争いや詐欺による被害は後を絶たない現実があります。この世界は何が起こるかわからない危険に満ちた世界です。外からの危険だけでなく、心の弱い私たちは、内からも忍び寄る危険にも晒されます。時には永遠の滅びへといざなわれることもあるのです。しかも将来の見通しが立たない世界。私たちは今、そういう世界に生きているのです。どうしたら不安を乗り越えて生きて行けるのでしょうか。

人の一生はなんと危険に満ちていることでしょう。愛する子の平穏で健やかな成長を願う親は、自ずと神さまの御加護を願うことでしょう。それが人間の本来の姿です。どんな不安の時も神に委ねましょう。冒頭の聖句は、神に助けられたと思える体験を何度もした人のことばです。私たちに大きな慰めと希望を与えてくれます。

自分で選んで決めたことの結果は自分で責任を取るべきです。同様に、神に委ねたことの結果は神が受け止め、神が責任を取ってくださると信じるべきです。たとえその結果が自分の望みと違ったとしても、受け入れる覚悟で神に委ねるべきです。何故なら、いつの日か最終的には必ず「良い結果を得た」と思える日が来るからです。神は慈しみ深い方なのです。

旧約聖書に「我々は人の手にではなく、主(神)の手に委ねよう。主(神)はその偉大さに劣らず、慈しみをもっておられるから。」(シラ書218)と書かれています。どんな不安な時も、きのうも、今日も、そしてこれからも変わらない永遠の愛であり、慈しみ深い神に委ねて生きる人は幸いです。


聖書のことば 5月


聖 句

「神の国は『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17章:21節)

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 今月の聖句は、人々が「神の国はいつ来るのか」とイエスに詰問した時の返事です。当時の人々は「神の国」を、神さまを中心に平和で、豊かで、お互いに愛し合った幸せな国として捉えていました。いつかそのような国が来ると考えている人が多くいたのですが、当時の為政者たちにとっては、神さまが中心とした神の主権と支配を認めることは、自分たちの地位が危ぶまれることになるのでイエスに問いただしたのです。

 ところで「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」という言葉をどのように考えたらよいのでしょうか。少なくとも神の国とは、場所的に捉えてはならないことは確かです。「神の国」という場所があるのではなくて、むしろ私たちの心の状態が問われているのです。あなたと私という人格的交わりの在り方の状態によって「神の国」が来ているのか否かが決まるということでしょう。またこのことは、死んだ後に突然、「神の国」に入った状態になるというのでもなく、死ぬ前から、この世にある時から、まだ不完全であるが神の恵みによって「神の国」入った状態になることができることを意味します。そしてこの世にあって少しずつその状態は始まって、神よって完成されるのです。人間の力だけでは不可能なことも神には可能であると信じるからです。

 地球温暖化による自然現象の異変にしても、また政治的にも経済的にも人々を不安にさせる出来事が世界各地で起きています。インフルエンザやコロナウイルス感染症などが世界的大流行(パンデミック)なども不安や恐れを抱かせます。更に、領土をめぐっての争いや、自由を求めての戦いが世界各地で起きています。日本も近いうちに戦争状態に追い込まれるかしれないと不安を抱いている人は多いと思います。今日起きている問題の多くは、一国だけでは解決できません。だから、この世界に神の国を建設することは難しく、そんな国など非現実的であるように思われます。

 しかし今私たちが何も努力しなければ、私たちの子孫の未来はないでしょう。いくつも不安要素がある世界情勢の中で、少しずつではあるが、改善しつつ、遠い道のりではあるが、希望のうちに実行してゆく機運が生まれています。この道のりにおいて一人一人が大切にされ、愛し合う社会になるように、そして国々がお互いに理解を深め、助け合い、世界が一つの心になって行くことを願い、何かできることをすることは、神の国を建設するプロセスだと思います。

 神の国は死後の世界のことだけではなく、この世の世界において既に始まっているのです。それが永遠に続くものとして、この世にあるときから造り始めるものです。愛し合う人間関係の上に造られるもの、即ち世界の人々との建設的な良き対話によって造られるということです。科学技術の発達によって、グローバル化したことは負の面があるとしても、それ以上の交わりを深めるために素晴らしいことです。聖句にあるように「神の国は、わたしたちの間にある」のだということを自覚したいと思います。

 

聖書のことば 4月



聖句

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」(ルカによる福音書6章31-32節)

子供の自主性

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦 

 新園児を迎えて、当園も喜びにあふれています。コロナ過から完全に開放されたわけではありませんが、マスク着用も個人の判断にゆだねられるようになり、ようやく普通の生活を取り戻そうとしています。新園児たちにとって不安と緊張の中での入園式を迎えることでしょう。初めての共同生活、多くのお友だちをつくって欲しいと思います。人は人との関わりの中でしか成長できないのですから。

 また「人は主体的に生きることによって幸福になれる」と言われます。ご両親の立場になると我が子がみんなと仲良くやって行けるだろうかと心配のことでしょう。子供はあらゆる面において、大きく成長する可能性を秘めています。

 当園はモンテッソーリ教育法を採用しています。この教育法の最も大切にしていることの一つは、自分で選ぶということです。他人に指示されてではなく、自分で選び取ることができるようになることの中には、好き嫌いのほかに、やる気、結果の対する自己評価、反省などが含まれています。また上手くできた時の喜びや上手くできなかった時のくやしさの体験をしながら結果にたいする責任感も醸成することになります。大人になってからも自分で選び取ることの重要性は変わりません。

 人の一生の中で、他人に相談することはあっても最終的に自分で選び取る決断をしなければならない場面が多くあり、その決断を幾つも重ねながら人間的成長が為されます。今月の聖句にあるように「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」ができるようなることは、私たちの目標であり、それを達成するには自主性がなければできないことです。私たち大人も子供もこの目標に少しでも近づきたいものです。

保護者の皆さんも今まで以上に我が子との関わりを持ち、同時に子供の自主性を大切にしたかかわりを持ってくださることを願っています。保護者の皆さんと全職員が一丸となって、子供の成長のために尽力したいと思っています。子供の成長は、私たちみんなの喜びであり、希望を抱かせてくれることです。

 

聖書のことば 3月

 聖 句

「マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、復活されたイエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」(ヨハネ20:11-14)


新たな旅たちに向けて

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 梅の花の香りが、春の風に乗って漂い始め、今月末には桜も満開となる季節となりました。そんな素晴らしい季節に卒園式を迎えます。しかし、厳しい冬を通り越さなければ、うららかな春が来ないように、私たちの人生も、長い忍耐と苦しみを通り越さなければ、魂の底から溢れる喜びは訪れないのです。

 私の大学時代、学生寮で共に過ごした友人,新井 満 氏が2021年の12月に亡くなった。作家であると同時にシンガーソングライターでもあった新井氏が、妻を亡くした友人を慰めるために作曲した「千の風になって」は多くの人々に歌われた。そして彼もこの世を卒業して逝きました。

 愛する者を失った人にとって、その愛する人の面影は消えるものではありません。生前と違って、いつでもどこでも傍にいてくれるような気がします。生前の思い出が走馬灯のように思い巡らされ、いとおしさ、せつなさに浸るときその人の存在がいかに大きかったか思い知らされます。人は命を与えられ、生かされ、そして人の世話を受けながら生き、人の手によって葬られてゆくのです。「千の風になって」は、悲しみの中にある者を「私のお墓の前で、泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。」と今やいつもあなたと共にいるよ、さあ、新たな出発をするようにと促すのです。

 キリストに出会って罪の生活から救われたマグダラのマリアは、キリストを愛し、キリストのみを真のよりどころとして生きていました。彼女にとってキリストの死は、慰めようもない深い悲しみであり、生きている意味を失ったかのように落ち込んで、墓の前で一人泣いていました。そんな時、空になっていたお墓で復活したキリストに再び出会ったという記事が今月の聖句です。最初は、復活されたキリストであると気が付きませんでしたが、すぐ後で認識する恵みを得ました。彼女は喜びのあまり、われを忘れて足元にすがりつきました。キリストは彼女に言われました。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ昇っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方の所へ私は昇る』と。」

 この世のどんな出来事もすべて過ぎ去るもの。それらにすがりついてはいけない。むしろ人々のところに行って、この復活の喜びを告げ知らせなさいと、キリストはマグダラのマリアに優しく促しているのです。もう、悲しんでいませんでした。何故なら復活の信仰を新たにし、生きる希望を見出したのですから。新しい人間となって、喜びいさんで、復活の喜びを宣べ伝えるために人々の中に出かけて行ったのです。

 今年度も終わろうとしています。子供と共に親も新たな段階へと進むのです。新しい年度を迎えると、色々なことが新しくなります。過去や目先の事柄だけに捕われることなく、将来に向けて元気よく歩みだす力と勇気、そして希望が与えられますようにと願っています。


(注)このブログのコメントを誰でも書き込むことができる設定にしました。



聖書のことば 2月


 聖書のことば

 イエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。 母はこれらのことをみな、心に留めておいた。(ルカ福音書 2章49-52節


 ともに成長するために

 唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

今月の聖書のことばにある「父の家」とは、この場合エルサレムの神殿のことです。当時のユダヤの社会では、12才になると大人の仲間入りをしました。その年齢になったイエスは、律法を守るために両親と一緒に過越祭の祭り行くことになったのです。そのために初めて、両親と30キロ近く離れたエルサレムに歩いて上られたのです。帰路にあった時でした。両親は大勢の人々の中で少年イエスを見失ってしまい、一日かけてエルサレムへ引き返して散々探し回った挙句、神殿で見つけました。母マリアは「あなたは、どうしてこんなことをしましたか。お父さまもわたしも心配して、あなたを捜していたのです。」と言われたのに対するイエスの言葉が今日の聖句です。

普通の子供が応える言葉ではありません。母は意味が分からなかったのです。無事見つかって安堵の気持ちだったでしょうが、神殿で学者たちに囲まれて、大人と対話していたのですから、驚いたことでしょう。我が子の成長した姿を見るうれしさと同時に自分の思いを越えて人間として成長している我が子を見て驚いたのです。もう一人の人格を持った立派な大人として、我が子を見つめ直したことでしょう。「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」とありますが、母マリアにとって忘れられない応答の言葉であり、いつまでも記憶に残る一日になったことでしょう。このような機会は母マリアも我が子と共に成長する出来事となったのだろうと思います。

子育ての毎日の中にあって、何気ない日常の出来事や対話の中にも子供の成長を見出すことがあるかもしれません。いつでも成長過程に沿った対応ができるようになりたいものです。そう務めることは、子供と共に自分も人間的に成長することになるでしょう。我が子と共に成長させてくださる神さまに感謝と喜びをもって応えましょう。


聖書のことば 1月

 

園舎のちかくにある幼稚園の畑

育児を楽しむ

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

 新年、あけましておめでとうございます。今年も「聖書のことば」お届けします。今月は旧約聖書からです。

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻み付ける。」(旧約聖書イザヤ書4915-16節)

 

昨年の暮れに「母親になって後悔してる」。そんなタイトルの本が出版され、話題となっています。イスラエルの政治的圧力のかかった社会で書かれた本であるが、こんな言葉を言いたくても言えなくて、我慢している母親も少なからずいるのではないかと思います。それほど、育児は大変苦労の多いことだからです。何が一番のストレスになっているのか、人によって違うのでしょうが、とにかく育児は、持ってるエネルギーをことごとく奪われることであり、自分の人生設計の見直しを迫られることもあるのだと思います。神の恵みを恵みとして受け取れない場合もあるのでしょう。しかし、心の中で後悔する権利は誰にでもありますが、それを言葉して言うことによって、人の命の尊厳を傷つける権利はないでしょう。

 

 「乳児期は肌を離すな、幼児期は手を離すな、児童期は目を離すな、思春期は心を離すな」と言われます。親は四六時中、気の休まる時がありません。ストレスが溜まるのは当たり前です。しかし悩みながらも「最後はいつも神に委ねなさい」と付け加えたいものです。子育ては喜びも多いのです。子供の成長は早いもの、その成長に追いつけない親もいます。子供の成長過程に沿った子育てを心がけましょう。心の持ち方次第で子育ては最高に楽しいものになるのです。今がその時期なのです。大いに楽しめる親になりましょう。

 

しかし、やがて親元を離れる時が来ます。「神に委ねる心」はますます必要になります。そのための心の準備をしなければならないことを心のどこかに留めておきましょう。子供は神さまから預かっている存在なのですから。そして、今日の「聖書のみことば」にあるように、親の親である神さまは、子育ての大変さ、苦しみを一番わかっておられ、手のひらに刻み付けるほどあなたの苦労をしるして、覚えておられるのです。今日の「みことば」を信じる時、苦労の中にありながら子育てに喜びを見出すしょう。