聖書のことば 2月


 聖書のことば

 イエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。 母はこれらのことをみな、心に留めておいた。(ルカ福音書 2章49-52節


 ともに成長するために

 唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

今月の聖書のことばにある「父の家」とは、この場合エルサレムの神殿のことです。当時のユダヤの社会では、12才になると大人の仲間入りをしました。その年齢になったイエスは、律法を守るために両親と一緒に過越祭の祭り行くことになったのです。そのために初めて、両親と30キロ近く離れたエルサレムに歩いて上られたのです。帰路にあった時でした。両親は大勢の人々の中で少年イエスを見失ってしまい、一日かけてエルサレムへ引き返して散々探し回った挙句、神殿で見つけました。母マリアは「あなたは、どうしてこんなことをしましたか。お父さまもわたしも心配して、あなたを捜していたのです。」と言われたのに対するイエスの言葉が今日の聖句です。

普通の子供が応える言葉ではありません。母は意味が分からなかったのです。無事見つかって安堵の気持ちだったでしょうが、神殿で学者たちに囲まれて、大人と対話していたのですから、驚いたことでしょう。我が子の成長した姿を見るうれしさと同時に自分の思いを越えて人間として成長している我が子を見て驚いたのです。もう一人の人格を持った立派な大人として、我が子を見つめ直したことでしょう。「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」とありますが、母マリアにとって忘れられない応答の言葉であり、いつまでも記憶に残る一日になったことでしょう。このような機会は母マリアも我が子と共に成長する出来事となったのだろうと思います。

子育ての毎日の中にあって、何気ない日常の出来事や対話の中にも子供の成長を見出すことがあるかもしれません。いつでも成長過程に沿った対応ができるようになりたいものです。そう務めることは、子供と共に自分も人間的に成長することになるでしょう。我が子と共に成長させてくださる神さまに感謝と喜びをもって応えましょう。


聖書のことば 1月

 

園舎のちかくにある幼稚園の畑

育児を楽しむ

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

 新年、あけましておめでとうございます。今年も「聖書のことば」お届けします。今月は旧約聖書からです。

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻み付ける。」(旧約聖書イザヤ書4915-16節)

 

昨年の暮れに「母親になって後悔してる」。そんなタイトルの本が出版され、話題となっています。イスラエルの政治的圧力のかかった社会で書かれた本であるが、こんな言葉を言いたくても言えなくて、我慢している母親も少なからずいるのではないかと思います。それほど、育児は大変苦労の多いことだからです。何が一番のストレスになっているのか、人によって違うのでしょうが、とにかく育児は、持ってるエネルギーをことごとく奪われることであり、自分の人生設計の見直しを迫られることもあるのだと思います。神の恵みを恵みとして受け取れない場合もあるのでしょう。しかし、心の中で後悔する権利は誰にでもありますが、それを言葉して言うことによって、人の命の尊厳を傷つける権利はないでしょう。

 

 「乳児期は肌を離すな、幼児期は手を離すな、児童期は目を離すな、思春期は心を離すな」と言われます。親は四六時中、気の休まる時がありません。ストレスが溜まるのは当たり前です。しかし悩みながらも「最後はいつも神に委ねなさい」と付け加えたいものです。子育ては喜びも多いのです。子供の成長は早いもの、その成長に追いつけない親もいます。子供の成長過程に沿った子育てを心がけましょう。心の持ち方次第で子育ては最高に楽しいものになるのです。今がその時期なのです。大いに楽しめる親になりましょう。

 

しかし、やがて親元を離れる時が来ます。「神に委ねる心」はますます必要になります。そのための心の準備をしなければならないことを心のどこかに留めておきましょう。子供は神さまから預かっている存在なのですから。そして、今日の「聖書のみことば」にあるように、親の親である神さまは、子育ての大変さ、苦しみを一番わかっておられ、手のひらに刻み付けるほどあなたの苦労をしるして、覚えておられるのです。今日の「みことば」を信じる時、苦労の中にありながら子育てに喜びを見出すしょう。