聖書のことば 5月号



 聖 句

マリアは言った。「わたしは主(神)のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(新約聖書ルカによる福音138節)

   

聖母マリアの生き方

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 カトリックでは、新緑と花々が咲き乱れる美しい季節を迎える五月を、聖母マリアの月と呼んでいます。この月には特に聖母マリアに尊敬と祈りを捧げるのです。 彼女の生きる姿勢と生き方が、よく現れている聖書箇所が今月の聖句です。この後に続く46節から54節は「マリアの讃歌」と言われ、全世界のカトリックの教会や修道院で季節を問わず、毎日唱えられています。

 

 マリアは、ユダヤの国のナザレという小さな町に、父、ヨアキムと母、アンナの間に生まれました。神からのお告げがあった時、すでにナザレの大工であったヨゼフと婚約していました。ですから、彼女は、平凡で幸せな家庭を築こうと夢見ていたと思います。そのような時期に、ある日突然、救い主(イエス・キリスト)の母となるよう神から要請を受けたのです。だから、驚きと戸惑いのなかで、しかし、彼女は謙遜な心で神の御旨(人類を救うという神の計画への協力要請)を「お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って受け入れ、またその誉れある使命を受けたことを人々と共に喜び、その御旨を忠実に果たすための決意を胸に秘めて「マリアの讃歌」を歌ったのです。神の救いの計画を実現するためには人間側の協力者が必要だったのです。他方、マリアが救い主の母となられたことは、彼女の誉れであると同時に、私たちの大きな喜びです。何故なら、マリアを通して救い主が生まれ、その御子、イエスによって人類の救いがもたらされたからです。

 

 マリアの生き方で、心に留めておきたいことは、彼女が、神の計画を全面的に受け入れ、協力し、生涯を神の計画のために生きられたことです。彼女の神への従順さと謙遜さがこの聖書箇所に現れていると思います。そして、神のお告げを受けた当時、これから築こうとしていた小さな幸せな家庭という自分の夢よりも、神の御旨を果たす道を選ばれたのです。彼女の心のなかでなされた決意は、人類の救いにおける大事な瞬間でした。この決意があったからこそ救いは実現し、マリアの子、イエスによって永遠の命への道が開かれたからです。しかも、信じる者は、皆、永遠の命に生きる者とされることは、信じる全ての者の母となったことをも意味します。それ故、マリアを聖母と呼ぶのです。聖母の生き方は、多くの人々の模範となりました。神への信頼の深さ、神の招きに素直に従う清い心、神の救いの業に協力する惜しみない心などは、何時の時代も多くの人々に称えられてきました。私たちも聖母マリアの生き方に学ぶことができますように。

 

聖書のことば 4月号


聖 句
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章:34節)


続‐子育ての基本的心得

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦
 美しい花々が咲き乱れる春のうららかな日に、嬉々として新園児たちが登園してくる姿を見るのは、幼児教育に携わる者に取って、最も希望に満ちた喜ばしい光景です。今年も職員一同、喜びのうちにお迎えしたいと思います。

 純粋で愛らしい子どもたちが、全国各地で親の虐待を受けていることが、時々明るみに出ます。先月は逆に大学生の息子が両親を殺害した事件が鳥栖市で起きました。最も愛し合っているはずの親子が、双方とも人間として未熟のためにこのような痛ましい出来事が起きたのでしょう。両親を殺害したとされる大学生(19)の裁判員裁判が3月7日、佐賀地裁で開かれました。判決は9月に言い渡される予定です。日頃から両親から、行き過ぎた教育パパ、教育ママならぬ教育虐待を受けていたとのことです。
 悲しい思いになると同時に、私自身、保育、教育に携わる者として、幼児教育の重要さと日々の自分の考えや行動を見つめ直す必要があると思っています。

 それにしても、もし、私が2月号のブロク「おむすび」で書いた「子育ての基本的心得」があれば、決してこのような事件は起こり得なかったと思います。ブログで三つの事を述べました。簡潔にもう一度、箇条書きしたいと思います。大切な子どもたちのために、読んでほしいと思います。

1, 子どもは神からの預かり者であり、自分の芸術作品のように思ってはなりません。
2, 子どもには神さまから受けた使命があり、自分の願いを押し付けてはなりません。親はそれを果たす事ができるように助ける役割と責任があります。
3, 誰でも生きてゆく事自体が大変なことです。お互いに愛し合うことによって、親は子に寄り添いながら良き同伴者となることが求められます。その事によって親も子も共に成長するのです。

 どのような人間関係も本当に愛する心がなければ、その関係は、いつ壊れるかもしれません。人間は神に愛された者であることの自覚がなければ、人間の憎愛は、極端から極端へ揺れ動くものだから壊れやすいのです。



聖書のことば 3月号

 


聖 句

「主(神)は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。 御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。 」(旧約聖書 詩篇33:13~15)


子どもをよく観察しながら

親も共に成長しましょう

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 子どもを授かると誰でも思うことは、喜びだけでなく、自分と同じように人格を持った人間を自分に、その生命も人間としての成長も、その他様々なことを委ねられていることの不思議さと責任感だといいます。そんな思いで子どもを見つめていると自分が幼かった頃のことを思い出すのです。多くのことは既に忘れてしまったとはいえ、いつの間にか大人として成長し、現在があることを実感するのです。どのようなプロセスを経て成長したのか気がつかないままで現在に至っていることに驚かれるかもしれません。

 この忘れてしまった、あるいは意識すらしなかった成長のプロセスを再発見する歩みは、子どもと共に成長することではないでしょうか。これは大変なことですが、子育ての楽しみの始まりでもあり、自分のさらなる成長の始まりでもあるかもしれません。

 マリア・モンテッソーリは、イタリアの医師であり教育家でした。彼女は、精神病院で障害のある子どもたちの治療・教育に携わり、子どもたちをよく観察することから治療を始めました。その結果、子どもたちから、多くの大事なことを学び、成果をあげました。その後、健常児にも同じ教育法を適用し、最初の「子どもの家」を設立し、子どもを科学的に観察することによって、子どもには自分を育てる力が備わっているという「自己教育力」の存在に気づいたのでした。素晴らしい観察力だと思います。

 さて、一つの例として、子どもが「いや!」と言ったら、どのように受け止めますか。もっと素直な子になって欲しいという思いだけでなく、どこか心の奥には、自己主張ができるようになったのだという思いもあるでしょうか。これは、子どもが独り立ちを始めた証拠、自分は親とは違う人間であることに目覚め始めた証でもあるのです。このような肯定的な受けとめもできているでしょうか。

 では、この例での「いや!」にはどんな思いが込められているのでしょうか。状況によって、様々な事が考えられると思います。状況に適した判断ができるようになるには、常日頃、子どもをよく観察している必要があるのです。まさに、観察力が試されることになります。

 さて、どんな意味が込められているケースがあるでしょうか。いくつかのケースを考えてみましょう。

① 大人の反応を見ている場合があます。子どもは、大人の押しつけではないかという感情から反射的に「いや!」といって、大人がどのような反応をするか見ているのです。大人の期待が大きすぎたり、言葉が強すぎたりした場合によくあることです。

② 失敗を繰り返し体験している場合によく見られます。自分にはまだできないのですという強い意思表示の場合が考えられます。

③ できるかもしれないという思いがあっても、やってみる勇気がない場合もあります。

④ ただ感情的になんとなく、やるのが嫌いと言っている場合があります。

この他にも違うケースもあることでしょう。大事なのは、子どもをよく観察し、適切な反応と状況に応じて時宜にかなった対処ができるようになることです。子どもであっても人格を持った一人の人間として対応することは、自分自身の成長にもつながることだと思います。子どもも親や大人たちを無意識のうちに観察し、良いことも悪いことも学んで成長するのです。今日の聖句にあるように、神さまも私たちをよく観察し、育てておられるのですから。

 以上、子育ては、観察力を身につけることが大切であることを述べてみました。


聖書のことば 2月号

 

聖 句

「私たちの神様は、なんとすばらしいお方でしょう。神様は主イエス・キリストの父であり、あらゆる慈愛の源です。そして、私たちが苦しみや困難にあえいでいる時、慰めと励ましを与えてくださるお方です。それは、苦しみの中にあって慰めと励ましを必要としている人々に、私たちも、神から受ける助けと慰めを与えることができるためです。」(聖パウロのコリント人への手紙 Ⅱ 1:3-6)


子育ての基本的心得

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 今月は、子育ての一番大切な基本について考えて見たいと思います。親は目先のことばかりに心を奪われて、子育てで最も大切なことを見失ってしまいがちです。そこで、3つの子育て基本となる心得について考えてみましょう。そんなことを考える心の余裕も時間もないことが多いのかもしれませんがわかっていると思うことであっても、時々基本に立ち返る必要があると思います。


 その1.子供は自分の者という思いではなく、神様からの預かり者という子育ての基本を忘れがちになっていませんか。自分の子供への可愛さのあまり、まるで自分の芸術作品のように子供を見てしまって、自慢したり、がっかりしたり、親の心は浮き沈みしていませんか。子供は神様との共同作品であることを時々思い起こしましょう。いずれ子供は独り立ちするのです。その日のことを思い、目先のことだけに気を奪われないようにしましょう。


 その2.どんな人間でも無意識のうちに他人との比較で自分を見てしまいます。だからどうしても子育ての親も、他の兄弟や親戚の子供やお友達と比較してしまいます。しかし、子供は、神さまが与えた他の人と違う使命を持って生まれています。そして他の子と違うユニークさや個性を持っています。それらを大切にしたいものです。将来、その子に与えられた使命を親もまだよくわかりません。親は子が自分の使命を果たすための助け手となるべきなのに、いつの間にか自分の望みを押し付け、実現させようとしていませんか。この子の使命は何なのか子供と共に親も考え、一人の人格者としてその子を見つめ、尊敬の念で接する心を失っていませんか。


 その3.どんな人にとっても生きてゆくこと自体が大変なことです。必ず何らかの困難や苦しみが伴います。子供の教育の現場も、社会にも厳しさがあります。社会の中では、管理され、成果を求められ、評価されます。子供たちも次第にこのような環境の中に入れられてゆきます。人権無視の劣悪な社会状況以外は別にして、普通の社会環境での困難は、生きてゆくための試練であり、育ってゆくために必要なことですが、ときには本人にとって超えられない困難もあるものです。学業や交友関係などで子供が直面する困難にたいして、励まし、寄り添う接し方ができているでしょうか。子供にとって今直面している困難は何なのか理解を得るためには、良き聴き手になることが必要です。忙しさにかまけて子供の悩みをよく聴くこともなく、直感や想像だけで判断し、間違った思い込みになっていませんか。

 しかし、良き対話ができていても乗り越えることができない場合もあります。親子だけで悩むより、先生、あるいは信頼できる誰かに相談することも良いことです。そして同時に、心の内には神の助けをいつも願うことが最も人間らしい姿であると思います。なぜなら人間の力だけでは解決できない問題もあることを知ることは、困難や苦しみを、異なる次元で考えるようになるからです。つまり、人間側からだけでなく、神様の側から見た次元でも考えることになるのです。両方の側の立場から考えることは、直面している問題が違って見えてくることでしょう。

 だからといって解決できるわけではないかもしれませんが、少なくとも広い視野での理解が深まり、同じような問題で苦しむ人々との共有の絆が強められ、神の慰めを得るのです。人間が望んでいるような解決が与えられなくても、生きる力が湧いてくるのではないでしょうか。何故なら上記の聖句に書かれているように、神様は、いつも苦しむ者の味方であり、慰め、力づける方だからです。

 以上、子育ての3つの基本的心得について述べましたが、参考になれば幸いです。