聖書のことば 8月

 

防火訓練の日に

 不幸をどう受け止める?

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

 イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちが尋ねた。「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ福音書9:1-3

  不幸な人を目にすると、弟子たちがイエスに尋ねたように、いったい誰のせいなのかと問わずにおれない私たちです。同じ疑問を、他人の不幸だけでなく自分に対しても投げかけます。もっと頭がよかったらいいのに、もっと器量がよかったらいいのに、どうして病弱な体に生まれたのか、あのときあのような事故が何故起きたのか、自分の不幸、自分の惨めさを数えて、思い悩む時もあるでしょう。

  見えない、聞こえない、話せないという三重苦を乗り越えて多くの業績を残した社会福祉事業家、ヘレンケラー女史の不幸は、生後19ヵ月後で盲聾唖者になったことでした。しかし彼女はキリストの言葉によってこの不幸を乗り越えることが出来ました。点字の聖書が擦り切れるほど彼女は聖書をよく読んでいたといわれます。彼女はきっと「この不幸がどうしてなのか、イエスが応えられたように、この不幸によって、どうして神の業が人々に現れることになるのか」と何度も自問したに違いありません。きっと長い間、思い悩み苦しんだことでしょう。苦しい心の葛藤を経て、彼女がたどり着いた結論は、この不幸の私に、神さまの業が現れるためであったと受け止めたのです。それができたこと、それこそ神の恵みであり、彼女の心の中で起きた奇跡と言ってもいいほどの大きな出来事です。肉体的には盲聾唖者であっても、心で見る、聞く、体で話す力を得て、本当に大事なものが見え、聞こえ、話す人になったのでしょう。そして生きてゆく内的力をも神から得ていたのだと思います。

 私たちは多くの場合、他人との比較の中で自分を見つめ、自分に欠けている部分だけに心を奪われがちですが、逆に神さまから受けた恵みを数えあげてみると、多くの恵みを受けていることに気づかせられます。その恵みに感謝しつつ精一杯生きるとき、神の業と栄光がその人の上に現れることになるのでしょう。

たとえ、どんなハンディキャップを抱えている人であっても、与えられた恵みやタレントに感謝し、それを活かして嬉々として生きている人は、周りの人を力づけ、美しく輝いています。私たちにとって、本当に大切なもの、真実なものが見えるようになることこそ一番重要なことだと思います。そうすれば子供の一番素晴らしいところが見えるようになるのではないでしょうか。