聖書のことば 12月


 

クリスマスおめでとうございます。


唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(新約聖書ヨハネによる福音書1622節)


 クリスマスは人類の救い主、イエス・キリストの誕生を祝う日です。聖書の教えによれば、宇宙万物の全てが終りを迎える時があるといいます。世の終わりの時がいつなのか誰も知る由もないのですが、必ず到来すると言っているのです。

 

2千年以上前に救い主はこの世に来られました。それがクリスマスの出来事ですが、世の終わりの時も、救い主、イエス・キリストは再びこの世に来られる(再臨)と教えているのです。その時、全てのものは一新され、完全なものにされ、新たな命の世界が始まるのです。

 

クリスマスの時、イエス・キリストによる救いの大事業が始まり、今も続けられていると聖書は教えています。そして、キリストが再び来られるときに、全てのものが清められて新しくなり、不完全なものが完全なものにされて、完成の喜びに満たされるの時なのです。

 

クリスマスは、毎年巡ってくる単なるお祝い行事ではなく、救い主キリストが来られた歴史的出来事を祝うと同時に、これからキリストが再び来られて完成してくださることを思いめぐらす季節でもあるのです。その完成に向けて今もキリストは、人々の心に働きかけ、愛と慈悲に満ちた父なる神へと招く働きを続けておられます。そしてその慈しみの神のもとへ行くことを待ち望んでいる人々は、キリストの再臨の時に備えて心の準備をするのです。

 

聖書のことば 11月

夕暮れ時の唐津城(西の浜海岸)
 

死者の月に寄せて

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(新約聖書ガラテヤ人への手紙6:7-8節)

  今月は聖パウロの手紙の一節です。聖パウロは、しばしば肉と霊を対比させて語りました。ここで表現している「肉」とは神の意志に従わず自己中心的生き方に傾く心を指し、「霊」とは神の霊に導かれて神の意志に従おうとする心を指しています。

 ところで、カトリックは、11月を死者の月として、亡くなった方々を弔う習慣があります。霊に蒔き、霊から永遠の命を刈り取った人の臨終の床で書いた詩を紹介します。この方は、肺癌のため四人の幼い子供を遺して43才の若さで亡くなった牧師夫人(日本基督教団)原崎百子さんです。

     「わが礼拝

わがうめきよ わが讃美の歌となれ

わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ

わが涙よ わが歌となれ

主をほめまつるわが歌となれ

わが病む肉体から発する すべての吐息よ

  呼吸困難よ 咳よ 主を讃美せよ

わが熱よ 汗よ わが息よ

  最後まで 主をほめたたえてあれ

   (著書『わが涙よ、わが歌となれ』より)

 遺された子供たちが、大人になってこの詩を読んだときどのような思いになるでしょう。愛する夫と幼い子供たちを遺して旅立つことは、どんなにか辛く、悲しい現実を受け入れなければならなかったことでしょう。しかし、最後まで自分を見失うことなく、その苦しみを、神のみ旨の中で行われていると信じることが出来たのだと思います。将来のことは全て神に委ね、雄々しく病と戦い、苦しみながらも神を賛美することが出来るほど、神を信頼する心は、神の霊に蒔き、神の霊から永遠の命を刈り取った人といえます。普段から、それほどまでに神に依りすがり、神の慰めと力を得ていたに違いありません。「人は、生きてきたようにしか死ぬことはできない」といいますが、この母が健康な頃の日々の生活は、どのような生き方をしていたのか偲ばれます。いつの日か子供たちには、生前の母の生き方の偉大さを知る時が来て、誇らしく思うことでしょう。


 


聖書のことば 10月

 

衣干山さくら公園まで津波避難訓練

どうして争うの?

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネ第1手紙47-8節)

 毎日、武力による国際紛争が多くの地域や国で起きています。おびただしい数の人々の命が奪われています。歴史を見るといつの時代も戦争はありました。戦争は、人間の仕業です。争いの源は人間の心にあります。

公園で子供たちが争っています。ある子供は広場の片隅で泣いています。こんな光景を見るとき、そこに戦争の縮図があるような気がします。人間の持って生まれた性(さが)は、いつどのようにして人の心の中に入り込んだのでしょう。この性は子々孫々まで受け継がれてゆくのでしょうか。このような姿が私たち人間の現実です。

童謡作家、まど・みちお 作に次のような作品があります。

「ありくん、ありくん、きみはだれ? ぼくのなまえは さぶろうだけど

ありくん、ありくん、きみはだれ? 

ありくん、ありくん、ここはどこ? にんげんでいえば にっぽんだけど

ありくん、ありくん、ここはどこ?」

神さまの目からすれば、人間は蟻のように小さく、忙しく動き回り、縄張り争いをしているかのように見えるのかもしれません。しかしそんな蟻のような人間を、神は慈しみの目を持って見詰め、育てておられるのです。この世にあっては「これは自分のもの」「ここは自分の国」」と主張することが、私たちには大きな関心事です。しかし、この世の全てのものは、神さまが造られ、神のものでした。もともとどこにも国境の線引きはありませんでした。だから、みんな神さまを創造主として仰ぐ、兄弟姉妹です。あらゆる被造物に「兄弟なる太陽よ、姉妹なる月よ」と呼びかけたアシジの聖フランシスコに倣いたいものです。聖フランシスコは、今日の聖書のことばを、人間同士にとどまらず、この世のすべての被造物に対しても兄弟姉妹とみる生き方をしました。それで平和の使者と呼ばれています。

 


聖書のことば 9月

幼稚園で飼っているウサギのショコラ


いつまでも存続するもの

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

 「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」  (新約聖書コリント人への第1の手紙1313節)

 秋の深まりの中で、昔親しかった亡き人々のことが偲ばれることがあるのではないでしょうか。20年以上前のことですが、一人の信徒のことが思い出されます。彼は病気だったので自分の命は、あと2年と思っていました。そこでポストカプセル郵便に、妻宛の手紙を誰にも話さずに投函しました。

 ポストカプセル郵便とは、1985年の科学万博で人気を博した郵政省の企画で、21世紀になった元旦に配達しますというものでした。彼は2年どころか、21世紀になる少し前まで生きることが出来ました。信仰深く愛妻家であった彼の葬儀ミサの司式を、私がすることになりました。葬儀の時の聖書のみことばは、今月紹介している聖書箇所でした。

 そして彼の葬儀の数か月後の21世紀の最初の元旦に、彼の妻のもとにポストカプセル郵便が届いたのです。彼が内緒で投函してから15年経っていました。それを受け取った時の彼女の思いを信徒の皆さんに寄稿してくださったのです。タイトルは「只今別居中!」となっていました。

 この世とあの世で、別れた暮らしを別居暮らしと捉えて綴った文章は、変わることのない夫婦愛を感じさせる内容でした。今はもう別居暮らしは終わり、永遠の愛をさらに浄化させ、美しい世界で仲良く暮らしておられることでしょう。

 

聖書のことば 8月

 

防火訓練の日に

 不幸をどう受け止める?

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

 イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちが尋ねた。「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ福音書9:1-3

  不幸な人を目にすると、弟子たちがイエスに尋ねたように、いったい誰のせいなのかと問わずにおれない私たちです。同じ疑問を、他人の不幸だけでなく自分に対しても投げかけます。もっと頭がよかったらいいのに、もっと器量がよかったらいいのに、どうして病弱な体に生まれたのか、あのときあのような事故が何故起きたのか、自分の不幸、自分の惨めさを数えて、思い悩む時もあるでしょう。

  見えない、聞こえない、話せないという三重苦を乗り越えて多くの業績を残した社会福祉事業家、ヘレンケラー女史の不幸は、生後19ヵ月後で盲聾唖者になったことでした。しかし彼女はキリストの言葉によってこの不幸を乗り越えることが出来ました。点字の聖書が擦り切れるほど彼女は聖書をよく読んでいたといわれます。彼女はきっと「この不幸がどうしてなのか、イエスが応えられたように、この不幸によって、どうして神の業が人々に現れることになるのか」と何度も自問したに違いありません。きっと長い間、思い悩み苦しんだことでしょう。苦しい心の葛藤を経て、彼女がたどり着いた結論は、この不幸の私に、神さまの業が現れるためであったと受け止めたのです。それができたこと、それこそ神の恵みであり、彼女の心の中で起きた奇跡と言ってもいいほどの大きな出来事です。肉体的には盲聾唖者であっても、心で見る、聞く、体で話す力を得て、本当に大事なものが見え、聞こえ、話す人になったのでしょう。そして生きてゆく内的力をも神から得ていたのだと思います。

 私たちは多くの場合、他人との比較の中で自分を見つめ、自分に欠けている部分だけに心を奪われがちですが、逆に神さまから受けた恵みを数えあげてみると、多くの恵みを受けていることに気づかせられます。その恵みに感謝しつつ精一杯生きるとき、神の業と栄光がその人の上に現れることになるのでしょう。

たとえ、どんなハンディキャップを抱えている人であっても、与えられた恵みやタレントに感謝し、それを活かして嬉々として生きている人は、周りの人を力づけ、美しく輝いています。私たちにとって、本当に大切なもの、真実なものが見えるようになることこそ一番重要なことだと思います。そうすれば子供の一番素晴らしいところが見えるようになるのではないでしょうか。

 


聖書のことば 7月


感謝する心

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國彦

 マルコによる福音書に次のようなエピソードがあります。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ異邦人の女がイエスの足元にひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ時、イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」と言われた。女が応答していった言葉は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(マルコ7:28)でした。この話は、子供をイスラエル人、子犬を異邦人に譬えているのです。イエスの言葉は差別的譬えではないでしょうか。当然、この異邦人であるこの女は差別的言葉を受けたと感じたでしょう。

 イエスに対する頓智のきいた受け応え、そして必ず癒してもらえると思う深い信仰から出た彼女の態度に驚かされます。イエスはこの女の願いを叶えられたのです。この女は元気になった自分の娘を抱きしめてどんなに喜んだことでしょう。

 イエスの一見、差別的と思われるような言葉が、この女から深い信仰を現す言葉を引き出し、その謙虚な言葉によって、私たちが、神のみ前にいかにあるべきかを教えられます。私たちが持っているもので、神から与えられなかったものは何一つありません。神から与えられたものに対して、私たちは感謝すべきですし、受けた恵みを当然のように思ってはなりません。聖パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ51618)と勧めています。感謝の心はさらに多くの神の恵みを生み出します。感謝する心を大切にしましょう。

  

聖書のことば 6月:神さまに委ねる心

 唐津カトリック幼稚園  園長 江夏 國彦

 今月の聖書のことばは、ペトロの手紙からです。思い煩いのない人はありません。特に子育て真っ最中の人々にとっては当然でしょう。心配事が絶えない日々が続きます。それをどのように受け止めて、付き合っているのでしょうか。聖ペトロは次のように勧めています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(新約聖書 ペトロの第1の手紙:57節)

  ときにはわたしたちの悩みは執拗に付きまといます。忘れようとしても、一時的にできても、また悩みが涌いてきます。誰かに相談することはいいことですが、必ずしも解決するわけではありません。それどころか益々悩みは深まる場合もあるのです。人間は、寄り添い慰めることはできても、根本的な解決を与える力はないからです。聖ペトロは、自分の力にも、他人の力にも、お金にも、政治的な力にも、どんな力にも本当の解決を与えてくれる力はないことを体験的に悟ったから、今日の聖句の言葉を残したのでしょう。

  幼子が嬉しい時も、悩んでいる時もその思いを、自分を生んでくれた母に打ち明け、共に喜び、共に考えてくれることを願うように、大人も、苦しいとき、悩んでいるときに、わたしたちを創造してくれた父なる神さまのもとに立ち返るべきです。そして神さまにおまかせしましょう。真の解決を与えてくださる神さまと対峙し、祈り、対話する中で、慰めと真の解決を得るのです。心の奥深くから納得し、苦しみから解放されるには長い道のりが必要かもしれません。しかし、本当の解決を得るためには、この道程を経なければならないのだと思います。わたしたちに、神さまにおまかせする心、委ねる心が育ちますように。

 

聖書のことば 5月:命を育む水

 唐津カトリック幼稚園  園長 江夏 國彦

 聖母月の五月は、自然界が最も美しい季節です。特に日本は水の豊富な国ですからあらゆる生物が生き生きとして輝いています。水はあらゆる命を育み、豊かにします。しかし、心と魂の飢え渇きを覚える人には、どんなに豊かで清い水もなんの役にもたちません。人間は体と心は統一体として一つであると聖書は教えています。平和で豊かな暮らしをしている人でも心と魂を満たしてくれる水を求めている人は多いのです。


 キリストは弟子たちに次のように言われました。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、湧きあがるであろう」(ヨハネ福音書414節)

  体が感じる飢え渇きを癒してくれる水があるように、心の飢えを満たす霊的な水があると教えています。その水こそ、イエス・キリストご自身であるとキリスト者は、信じているのです。

 苗木を植えたときは、毎日十分な水を与えなければ根付かないように、幼い子は特にこの霊的水を必要としている時期なのです。知識や技能が沢山身につく前に充分与える必要があります。子どもたちが、心も体も、感性も知性もバランスよく成長することを願っています。