聖書のことば 3月号

 

伊万里湾・・・「小花会」は伊万里のトラピスト女子修道院を訪問

< お別れのお知らせ >

 このブログを発信して来ました唐津カトリック幼稚園 園長の私、江夏は、3月31日を持って園長職を辞任、及び退職する事になりました。それに伴い、このブログも3月号をもって終了することになりましたのでお知らせ致します。3年間続いたこのブログをお読み頂いた各方面の方々に感謝します。ありがとうございました。

 なお、今まで通り、カトリック唐津教会の主任司祭としての職には留まることになっていますので、今後ともよろしくお願いいたします。
江夏國彦。




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聖 句

 

「(わたしたちは)、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5:3-4節)

 

別れと旅たち

 

 唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 國

 風薫る季節に卒園式を迎えようとしています。卒園児は新たな出発をします。親しくなったお友達や先生たちとの別れの辛さを初めて体験する園児の心境を思うと、試練を乗り越えてほしいという願いから、元気づけたくなります。親も同じく新たな出発の季節です。厳しい冬を通り越さなければ、花咲き乱れる春が来ないように、私たちの人生の歩みも、苦労の多い子育ても、長い忍耐と苦しみを通り越さなければ、魂の底から溢れる喜びは訪れません。自然界の今の美しい季節は私たちに、ただ空しく苦労を耐えているのではなく、いつか花開く時が来るという希望を抱かせてくれます。

 

 先日教会の信者さんのお葬式があり、「千の風ホール」という社名の葬儀屋さんが来てくださった。その社名を聞いた時、思い出したのは、秋川雅史が歌って、多くの人に知られるようになった「千の風になって」という歌でした。私が大学生時代に学生寮で共に過ごした友人、新井 満(19462021)氏が作者不詳の詩を日本語に翻訳し、曲をつけて彼の親友に送った作品です。彼の友人の妻が急逝した時、慰めるために、シンガーソングライターでもあった新井氏が自ら作曲し、歌ってCDにして友人に贈ったのです。

 

 人は、出会いと別れ、そして旅たちと新しい出会いを繰り返しながら、しかも様々な苦しみや試練をくぐり抜けて生きています。神さまから、人々から多くの恵みを受けて、成長してゆきます。最後は、皆平等にこの世を去ることになるのです。だから、楽しい子育て真っ最中であっても、愛し合う家族が幸せの絶頂にあったとしても、ある瞬間、別れの日を予感する時もあるでしょう。子どもは成長して、いずれ親との別れの時が来ます。どんな幸せの時にも終りがあり、いつか別れの日が来ることを知っているからこそ今を大切に生きるのです。そうすれば真実に愛し合って生きてきた者は、どのような別れが訪れても素晴らしい別れをすることができるばかりでなく、希望を持って新たな旅立ちをすることができるからです。

 


聖書のことば 2月号



聖 句


「天におられる私たちの父よ、御名が尊まれますように。御国(神の国)が来ますように。」(マタイ福音書6章9-10節)

 

天変地異の世界

 唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 国彦

  地球温暖化が進み、世界の各地に大洪水や旱魃(かんばつ)、そして大規模森林火災など起きています。さらに海面上昇や地震と津波による被害も起きています。北極に近い地域も雪が溶けて船が航行しやすくなり、この地域を獲得しようと大国は動いています。世界の飽くなき経済活動は、さまざまな環境問題を生み出したばかりでなく、経済的格差も生み出したのです。一国主義は様々な格差を助長します。環境問題も経済問題も地球規模で国際的取り組みが必要とされる時代になっています。そうしなければ、今以上に過酷な自然環境と苦しい経済状況になるからです。一国だけでは解決できない問題ですが、同時に私達は今、個人的にも何ができるのか問われています。不安要素が様々な形で起きている世界情勢の中で、誰もが思うことは、この世界は結局、最後はどうなるのだろうか、破局に向かっているのではなかろうかと心配になります。

 

聖書には、世の終りがあると書かれています。上記の聖句で「御国(神の国)が来ますように」と述べていますが、まだ来ていないので来ることを願っているという意味ではなく、キリストの到来と同時に神の国は既に来ていて、始まっているが、まだ完成していないという意味です。キリストは既に設計図ともいえる神の国の譬え話を語り、その建設はキリストと共にキリスト者や善意ある人々が進めているのです。様々な困難が伴うが、世の終わりのときは破滅ではなく、完成の日になるとキリストは教えています。だからキリスト者は希望を失うことがありません。

 

私たちの生きている社会はどこの国でも、憎しみ、不正、争い、虚偽などによって混乱されがちであり、多くの人々が苦しんでいます。このような状況であってもキリスト者は、完成の日に向けて日々努力し、逆らいの力と戦っているのです。一人一人が大切にされ、愛し合う社会になるように、そして国々がお互いに理解を深め、助け合い、世界が一つになって行くことを願っているのです。

 

現実の世界は、一つになろうとする働きに逆らう考えや力が益々大きくなる一方で、同時に様々な形で、協力し合おうという気運や世界情勢も見られます。世界の各地で様々な天災地変が起きていますが、その事によってお互いに助け合い、寄り添い、心が一つになろうとする動きも見られます。

 

キリスト者が信じていることは、この世の常識ではとても完成するのは実現不可能のようなことですが、世の終わりの時には神の助けによってこの世は一新され、互いに愛し合う人々が一つになる世界が来ると信じているのです。だからキリストが教えた「主の祈り」の一部であり、今月の聖句の一部でもある「御国(神の国)が来ますように。」と祈るのです。

 


聖書のことば 1月号

 

白磁ケ丘公園内の相撲場の紅葉


聖 句

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13節)

 

平和のためにできることを

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏 国彦

新しい年を迎えてお祈り致します。皆さまの上に今年も神さまの豊かな恵みが注がれますように。

 昨年は、日本被団協がノーベル平和賞を受賞して、日本中が喜びでわきました。彼らの長年にわたる活動が認められ、その努力が報いられたのです。毎年のように世界各地で争いが起きているのに核兵器は、広島、長崎に使われて以来、一度も使用されませんでした。日本被団協をはじめ、多くの人々が絶え間ない平和への祈りと核兵器廃絶の訴えが、世界の人々の心を動かしたのでしょう。

しかし、今日の世界は核兵器が使われかねない情勢です。新しい年も平和への祈りと私たちのできる活動を続けなればならないと思います。たとえどんな些細なことであっても継続することは、何時か人々の心を動かします。

新年に当たって平和を語る時、日本には、もう一人忘れられない聖なる人がいました。福岡県生まれの人で、世界平和のために命を捧げた人です。その名は、中村 哲、世界中に報道されたので覚えておられる方が多いと思います。彼は、2019124日、アフガニスタンで凶弾に倒れました。73歳でした。30年以上、治安の悪いアフガニスタンで医療活動と灌漑工事によって、戦のために荒れ果てた地を緑地化し、国の復興のために尽くされ、60万人以上の命を救った偉大な人でした。幼少の頃北九州市若松区で育ち、九州大学の医学部を出て医者になられました。大学生の頃受洗されてキリスト者となった中村医師は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエスさまの今日の聖句通りを生きられた方でした。

 世界でも、日本の社会でも命を粗末にする悲しい事件が多く起きた昨年でしたが、一方では日本には善意ある多くの人々がいて、平和のために活動されている方々がいることを忘れてはなりません。私たちの地から輝き出た栄光の星を誇りに思うと同時に、私たちも、身近な小さなことから何かを行動に移す新しい年にしたいものです。






聖書のことば 12月号

御船山楽園 2024.11

 聖 句

「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」( ルカによる福音書 2章14節)


クリスマスと神の国


唐津カトリック幼稚園 園長   江夏國彦

 イエス・キリストがお生まれになった当時のユダヤの人たちが、神の国はいつ来るのか尋ねたとき、イエスは「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」と答えられました。意外な答えだと思われる方が多いでしょう。どのように理解したらよいのでしょう。

 神の国は、いつ来るのか、どこに来るのかと言うような、時間的でもなく、場所的なものでもないことを意味しています。そうではなくて、神の霊である聖霊が思いのままに働かれるとき、そこには神の国が到来しているのです。

 だから、私たちがお互いに、認め合い、ゆるし合い、愛し合っている者同士の人間関係、その心と心の間には喜びがあり、既に神の霊、聖霊が働いていて、その状態が既に神の国が実現していることになるのです。従って場所も、時間も超えた次元であり、むしろ心の状態が問われているのです。ただし、私たちは完全な状態には達していないので、完成に向かうように導かれているのです。つまり、既に神の国は到来しているが、まだ完成していないと言えます。

 聖パウロは「神の国は、聖霊によって与えられる神の義と平和と喜びです。」(ロマ書:14:17)と述べています。クリスマスは、その実現であり、神の国の雛形であり、この世においての始まりなのです。

 人類救済の出来事は、乙女マリアが身ごもるという、まさに聖霊による業によって始まり、神の義の実現に向かっているのです。救い主の誕生は、喜びと愛と平和で満たされていました。その救い主が、世の終わりに再び来られる時に、神の国は完成するというのです。   

 その事を信じる人々にとって、幼子メシアの誕生、すなわちクリスマスは、この世において神の国はすでに始まり、到来した事を意味します。そして人々は完成に向けての希望を持って生きているのです。この幼子を受け入れる全ての人々が神の国に導かれますように。


聖書のことば 11月号


「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30

 

 安らぎを得られる 

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦 

今年のノーベル平和賞に「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が受賞しました。79年前に広島と長崎で被爆された方々を中心に、その家族と市民の方々は核兵器廃絶を訴え続けて来られました。日本被団協は、世界平和を願う人々、日本のみならず世界の人々を倦むことなく鼓舞し、リードしてこられました。その功績が認められたのです。今日の世界情勢を鑑みるときに、核兵器が使われる確率がこれまでになく高まっています。だから受賞の意義は大きいと思います。

長崎の教会で、わたしは6年間働きましたが、長崎に赴任して一番驚いたことは、長崎では平和のためのイベント、集い、子どもの学習会など開かれ、またマスコミを通して平和についての番組などを毎日のように絶えることなく行われていたことでした。平和を維持するには、継続したこのような努力が必要なのだと思いました。まさに「継続は力なり」です。

しかし、平和で経済的に恵まれた日本の社会であっても、いやそうだからこそかもしれませんが、世界平和を考えることには飽きてしまい、自分の今の生活、自分のことで精一杯である人も多いことでしょう。どんな人も様々な悩みを抱えて生きています。重荷を背負わされて生きているようなものです。特に、子育て真最中の若い人々は、日々の重荷は時々重くのしかかることもあるでしょう。

  仕事や子育ての疲れ、病人がいると看病疲れ、そして人間関係の難しさに押し潰されそうになってしまうかもしれません。人間的な弱さや限界、自分のことで精一杯であり、他人の重荷、苦しみなど気付くゆとりのない現実の生活を省みるとき、今日の聖句のようなことばは、誰でもそう易々と言えるものではないのです。しかしキリストは、その生き方において、無制限に、無差別に、十字架上の死に至るまで自分を与え続け、私たちへの深い理解、利己心のない愛を注いでくださったのです。そして今も絶えることなく、私たちを支え、育て御自身の命を与え続けておられるのです。だから私たちの苦しみを一番良く理解しておられる方なのです。

私たちは自分の弱さ、ちっぽけな存在であることを知れば知るほど、イエスの言葉は、重みがあり、慈悲深い言葉として響きます。その生き方の源泉は、私たちに対する溢れるほどの愛、慈しみでした。キリストの倦むことのない、絶えることのない愛に私たちが学び、真の安らぎを得て真の平和を生きる者となれますように。

 

 

聖書のことば 10月号

西の浜の夕方


聖 句

「神はご自分にかたどって人を創造された。・・・男と女に創造された。・・・主なる神は、土と塵で人を形づくり、その鼻に生命の息(霊)を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」( 旧約聖書 創世記1章と2章から抜粋)



喜びであり神秘である誕生


 唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 子育ての親は、いつも自分の子どもにできる限りのことをしたいと思っています。誕生の喜びがその思いにさせます。しかし、当然のことですが、どうしても子どものためにやってあげることができないこともあります。ときには、できないことについても思い巡らすこともが必要ではないかと思います。何故なら、そうすることによって親の役割が明確なり、より相応しい子育てができるからです。

 例えば、遺伝的な事柄であれば、勿論親であっても変えられませんし、それを認め、受けいれるしかありません。それは運命的なことでもあります。このような事柄に関しては、何かを助けてあげることはできません。しかし時々、その不思議さ、神秘さを思い巡らすことは大切だと思います。そうすることによって命の神秘、命の大切さ、命の尊厳、誕生の喜びの思いも深まるからです。そして親は、我が子に対して人格をもった一人の人間として接し、子育てに当たるようになるでしょう。

 人の容姿の違い、男女の違い、性格の違いなどは遺伝的なものです。そしてその違いは誕生する前から胎内で形造られます。医学は命の誕生のプロセスで起きている驚くべきことがいくつもあることを教えています。医学の進歩によって、奇跡的な出来事の連続によって人の命が誕生することが解って来ました。

しかし、奇跡的な出来事の連続以上に神秘的で、不思議なことは、どうして精子と卵子との合体によって始まった受精卵が、細胞分裂を繰り返しながら成長し、やがて体全体が形造られ、そして肉体だけでなく、精神も心も魂も持った人間になるのでしょう。物質的なものがいくら大きく成長しても精神的なものを持ったものにはならないはずです。受精卵は、いつから精神的、霊的なものが備わるのでしょう。このことはとても神秘的なことだと思います。

受精卵はやがて成長して、親とは違う自由意志と人格を持った新しい人間として誕生するのです。親は、子の誕生の時、喜びだけでなく、その不思議さを特に強く感じることでしょう。しかし、いつの間にかそれが薄れてしまうのかもしれません。改めて深く考えると、何と神秘的なことでしょう。命ある生きものは、動物でも、植物でも人間とは違う方法ですが交わります。人間が心の交わりをするように、あらゆる生き物はいろいろな方法でコミュニケートしています。

しかし、生き物でない物と物との組み合わせで出来ているロボットは、どんなに科学が発達しても人間の心のような精神を持つことも、愛し合うこともないでしょう。もし人工知能(AI)や通信技術が将来発達すれば、ロボットが心を持つ時代が来ると思いますか? ロボット同士が愛し合う時代がくるでしょうか?

生き物でない物と物とをいくら精密に組み合わせても、精神的なものを持つことはありえないはずなのに、どうして生き物は精神的なものが備わるのかという問いには、医学がいくら発達しても答えてくれません。何故なら、この問いは医学の範疇ではないのです。科学は物質的ものだけが研究の対象であって精神的、霊的な事柄は対象になりません。他の生き物と違って、特に人間の場合は、自己犠牲が伴う愛し合う能力を持つようになるのか不思議でなりません。さて、読者の皆さん、このような思いに駆られたことがあるでしょうか。

今日の聖句である旧約聖書に書かれている創世記は、神は万物を創造人し、人間も創造したことを述べています。しかし創世記の記述は、物語として書かれているので実際に土と塵から人間が造られたということではありません。むしろ物語を通して聖書は重要なことを教えているのです。つまり、どのようにしてかは分かりませんが、万物を神が創造すること、そして人間は神に似た者として創造すること、体だけでなく生命の息と精神的、霊的ものを与えると述べています。

神は愛だから、人間に互いに愛し合う能力を与え、神ご自身とも愛し合う者にしたかったのではないでしょうか。だとしたら、神を愛し、人を愛することは、神のみ旨にかなっていることであり、人間として最も生きている意味を見出すことではないでしょうか。尊い命は、神から授かったもの、この命は愛し合う能力を持った者、その能力によって、より深い夫婦愛と親子の愛へと導かられる神の恵みを思いましょう。愛し合う家族は、更に大きな恵みと喜びを生み出すのです。何故なら愛し合う能力を持った命が増えた家族となったからです。


 

聖書のことば 9月号




 聖 句

「よくよくあなたに言っておく。人は上から生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音書3章3節)


幼児は間接的に学ぶ


唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 今月は、幼児の学び方の特徴についてです。幼児は、好奇心旺盛で、観察や模倣を通じて多くのことを学びます。まだ抽象的な概念を理解する能力が十分発達していないため、具体的な体験や遊びを通して学びます。「幼児は間接的に学ぶ」とよく言われるのはこの意味です。子どもたちが特別な教育を受けるのではなく、生活の中で自然に知識やスキルを習得するのです。

 例えば、ブロックについて教えようとする時に、形や色の違いあること、触ると違った感覚などがあることを、言葉で教えても理解できません。それを使って楽しい遊びをしながら学びます。お友達と一緒に作業することでお友達からも学びます。共同作業の楽しさなどは、いくら言葉で教えてもわかりません。

 幼児の学び方の二つ目の特徴は、興味を持ったことに対して強い動機を持ちます。遊びや体験を通じて学ぶことで、自然に興味を引き出し、学びを深めることです。

 さらに、三つ目の特徴は、幼児は他の子どもや大人との関わりを通じて学びます。誰かと一緒に遊ぶことで、社会的に必要な礼儀や人との交わり方の能力を育てることができるのです。

 このように考えてくると、幼児にとって、遊ぶことがどれほど重要なことか、わかります。だからいつでも自由に遊べるように環境を整えることが大切になります。


 ところで今月の聖句ですが「上から生まれる」とはどういう事かわかりにくいのではないでしょうか。それでもこの世の自然的な事柄を超える話であろうと思われます。幼児が抽象概念の言葉をまだよく理解できないのと同様に、私たち人間は、この世を超える事柄は理解できないので、神であるキリストは、そのような場合、人間が理解できる事柄の喩えを用いて話されたのです。だから、いつも何が何に喩えてあるのか、喩えを通して何を語っておられるのかを考える必要があります。

 聖句にある「上から」とは、上下の方向を言っているのではなく「神の恵み(神の霊)によって」の意味です。「生まれる」は、人間が生まれて生命が息づき始めることの喩えであって、出産の意味ではありません。ここでは「新しい命が始まる」という意味です。しかし、その命は生物学的な命ではありません。自然を超えた目に見えない事柄を述べています。それは霊的なものであり、神とともに、キリストにつながって共に生きる新しい命のことです。さて、今日の聖句をあなたはどのように受け止めますか。