聖書のことば 10月号

西の浜の夕方


聖 句

「神はご自分にかたどって人を創造された。・・・男と女に創造された。・・・主なる神は、土と塵で人を形づくり、その鼻に生命の息(霊)を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」( 旧約聖書 創世記1章と2章から抜粋)



喜びであり神秘である誕生


 唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 子育ての親は、いつも自分の子どもにできる限りのことをしたいと思っています。誕生の喜びがその思いにさせます。しかし、当然のことですが、どうしても子どものためにやってあげることができないこともあります。ときには、できないことについても思い巡らすこともが必要ではないかと思います。何故なら、そうすることによって親の役割が明確なり、より相応しい子育てができるからです。

 例えば、遺伝的な事柄であれば、勿論親であっても変えられませんし、それを認め、受けいれるしかありません。それは運命的なことでもあります。このような事柄に関しては、何かを助けてあげることはできません。しかし時々、その不思議さ、神秘さを思い巡らすことは大切だと思います。そうすることによって命の神秘、命の大切さ、命の尊厳、誕生の喜びの思いも深まるからです。そして親は、我が子に対して人格をもった一人の人間として接し、子育てに当たるようになるでしょう。

 人の容姿の違い、男女の違い、性格の違いなどは遺伝的なものです。そしてその違いは誕生する前から胎内で形造られます。医学は命の誕生のプロセスで起きている驚くべきことがいくつもあることを教えています。医学の進歩によって、奇跡的な出来事の連続によって人の命が誕生することが解って来ました。

しかし、奇跡的な出来事の連続以上に神秘的で、不思議なことは、どうして精子と卵子との合体によって始まった受精卵が、細胞分裂を繰り返しながら成長し、やがて体全体が形造られ、そして肉体だけでなく、精神も心も魂も持った人間になるのでしょう。物質的なものがいくら大きく成長しても精神的なものを持ったものにはならないはずです。受精卵は、いつから精神的、霊的なものが備わるのでしょう。このことはとても神秘的なことだと思います。

受精卵はやがて成長して、親とは違う自由意志と人格を持った新しい人間として誕生するのです。親は、子の誕生の時、喜びだけでなく、その不思議さを特に強く感じることでしょう。しかし、いつの間にかそれが薄れてしまうのかもしれません。改めて深く考えると、何と神秘的なことでしょう。命ある生きものは、動物でも、植物でも人間とは違う方法ですが交わります。人間が心の交わりをするように、あらゆる生き物はいろいろな方法でコミュニケートしています。

しかし、生き物でない物と物との組み合わせで出来ているロボットは、どんなに科学が発達しても人間の心のような精神を持つことも、愛し合うこともないでしょう。もし人工知能(AI)や通信技術が将来発達すれば、ロボットが心を持つ時代が来ると思いますか? ロボット同士が愛し合う時代がくるでしょうか?

生き物でない物と物とをいくら精密に組み合わせても、精神的なものを持つことはありえないはずなのに、どうして生き物は精神的なものが備わるのかという問いには、医学がいくら発達しても答えてくれません。何故なら、この問いは医学の範疇ではないのです。科学は物質的ものだけが研究の対象であって精神的、霊的な事柄は対象になりません。他の生き物と違って、特に人間の場合は、自己犠牲が伴う愛し合う能力を持つようになるのか不思議でなりません。さて、読者の皆さん、このような思いに駆られたことがあるでしょうか。

今日の聖句である旧約聖書に書かれている創世記は、神は万物を創造人し、人間も創造したことを述べています。しかし創世記の記述は、物語として書かれているので実際に土と塵から人間が造られたということではありません。むしろ物語を通して聖書は重要なことを教えているのです。つまり、どのようにしてかは分かりませんが、万物を神が創造すること、そして人間は神に似た者として創造すること、体だけでなく生命の息と精神的、霊的ものを与えると述べています。

神は愛だから、人間に互いに愛し合う能力を与え、神ご自身とも愛し合う者にしたかったのではないでしょうか。だとしたら、神を愛し、人を愛することは、神のみ旨にかなっていることであり、人間として最も生きている意味を見出すことではないでしょうか。尊い命は、神から授かったもの、この命は愛し合う能力を持った者、その能力によって、より深い夫婦愛と親子の愛へと導かられる神の恵みを思いましょう。愛し合う家族は、更に大きな恵みと喜びを生み出すのです。何故なら愛し合う能力を持った命が増えた家族となったからです。


 

聖書のことば 9月号




 聖 句

「よくよくあなたに言っておく。人は上から生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音書3章3節)


幼児は間接的に学ぶ


唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 今月は、幼児の学び方の特徴についてです。幼児は、好奇心旺盛で、観察や模倣を通じて多くのことを学びます。まだ抽象的な概念を理解する能力が十分発達していないため、具体的な体験や遊びを通して学びます。「幼児は間接的に学ぶ」とよく言われるのはこの意味です。子どもたちが特別な教育を受けるのではなく、生活の中で自然に知識やスキルを習得するのです。

 例えば、ブロックについて教えようとする時に、形や色の違いあること、触ると違った感覚などがあることを、言葉で教えても理解できません。それを使って楽しい遊びをしながら学びます。お友達と一緒に作業することでお友達からも学びます。共同作業の楽しさなどは、いくら言葉で教えてもわかりません。

 幼児の学び方の二つ目の特徴は、興味を持ったことに対して強い動機を持ちます。遊びや体験を通じて学ぶことで、自然に興味を引き出し、学びを深めることです。

 さらに、三つ目の特徴は、幼児は他の子どもや大人との関わりを通じて学びます。誰かと一緒に遊ぶことで、社会的に必要な礼儀や人との交わり方の能力を育てることができるのです。

 このように考えてくると、幼児にとって、遊ぶことがどれほど重要なことか、わかります。だからいつでも自由に遊べるように環境を整えることが大切になります。


 ところで今月の聖句ですが「上から生まれる」とはどういう事かわかりにくいのではないでしょうか。それでもこの世の自然的な事柄を超える話であろうと思われます。幼児が抽象概念の言葉をまだよく理解できないのと同様に、私たち人間は、この世を超える事柄は理解できないので、神であるキリストは、そのような場合、人間が理解できる事柄の喩えを用いて話されたのです。だから、いつも何が何に喩えてあるのか、喩えを通して何を語っておられるのかを考える必要があります。

 聖句にある「上から」とは、上下の方向を言っているのではなく「神の恵み(神の霊)によって」の意味です。「生まれる」は、人間が生まれて生命が息づき始めることの喩えであって、出産の意味ではありません。ここでは「新しい命が始まる」という意味です。しかし、その命は生物学的な命ではありません。自然を超えた目に見えない事柄を述べています。それは霊的なものであり、神とともに、キリストにつながって共に生きる新しい命のことです。さて、今日の聖句をあなたはどのように受け止めますか。





聖書のことば 8月号


聖 句


「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主(神)から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」(旧約聖書 詩篇121編より)


自分で学ぶ力


唐津カトリック幼稚園 園長 江夏国彦

 子どもは、もともと「自分で学ぶ力」を持っています。子どもによって学ぼうとする意欲の違いはあるでしょうが、みんな学ぶ力を持っているのです。親の立場から言えば、子どもは自分で自分を育てる力を持っていると表現することもできます。であるなら親の役割は、何なのでしょうか。

 子どもの成長過程で、自分に必要な時期に必要な課題に取り組んで成長していく力があるのです。子どもは教えなくても自ら歩こうとしたり、さまざまな動作を覚えたりして成長・発達していきます。自分の成長状態に合わせて必要な事柄に対して感受性を発揮する時期があり、適切な環境の中で自ら学び、吸収してゆくものです。

 だから、親は子どもをよく観察し、自ら学び成長しようとする力の助けとなる役割があるのです。良き助けとなるには、子どもの学びの状況をよく知り、時宜にかなった対応が求められるのだと思います。

 何かが出来るようになることだけでなく、子どもがしばしば大人に投げかける「どうしてなの?」という問いは、多岐にわたっています。自分で理解しようという力の現れだといえます。だんだん知識欲旺盛になってゆく子どもの成長過程で「どうして太陽は夕方になると赤く見えるの?」とか、また、ある日、唐突、「神さまは本当にいるの?」と質問を投げかけてくるかもしれません。親はどのように応えるのでしょうか。これは親が試される時でもあります。このように子どもの成長を見守ることは、親の成長を求められることでもあるのです。

 子どもが自分で学ぼうとする力に促されて、親も自分で学ぼうとする意欲が求められるのです。自分で学んで確信したことを自分の子に、自分のことばで応えること、それが親のつとめであり、役割であると思います。ですから、どんな人も生涯、学習することが必要なのだと思います。


















聖書のことば 7月号


聖 句

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることです。」(テサロニケ人への第一の手紙5;16~18)

 
生き生きとした子に育てるために


 唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 子育ての仕方は、自分の親がお手本になっていたり、あるいは反面教師になっていたりすることが多いのかもしれませんが、授かった大切な自分の子供にはやはり、自分でよく考え、自分のやり方で、楽しみながら、納得行くようにしたいものです。そこで、何事にも前向きで、生き生きとした子に育てるために、家庭での子育てについて提案してみたいと思います。

  家庭は、小さな保育園、幼稚園のようなものです。どこの保育園、幼稚園でも次の三つのことがあります。それは自由と規律、そして目標です。

 一つ目の自由とは、親は子どものために環境を整え、好きなことを好きなように好きなだけやらせることです。飽きてしまうぐらいに自由にすることです。自由にするということの中には、自分で選ぶということが含まれています。自分で選び取る力が大事なのです。大人になってからも、自分の意志で選び、何かを行い、そして結果について責任を取ることができる人間になることが大切だからです。このことは人間の一生の中で、例えば進学、就職、結婚などの重要な決断の時に特に重要になってきます。世の中には、重要な決断の時に最終的に自分で決められない大人も多く見受けられます。

 しかし、何の制限もなく自由にすることは良くないことです。放任主義にならないようにしましょう。何をするにも規律が必要です。その規律とは、具体的に言うと、子どもと親の約束事を一緒に作ることです。約束事は、子供が習得しようとしていることに対して親が親密に関わっていることの証であり、子供にとっての安心です。子供が約束を守ることは親にとっても安心感を得ることです。大人になってからも社会のルールを守りながら、かつ自分の才能を活かしつつ、積極的に生きて行けるためです。

そして三つ目が目標です。子供にとっての目標は、自分で出来るようになることです。子供は何かを出来るようになりたくて無心でやっているかもしれませんが、親は出来るようになるまでのプロセスを大切にするべきです。一つ一つのプロセスを通して多くを学ぶからです。

そのために親は忍耐強く見守る姿勢、必要なときは何時でも援助する心構え、出来たときは一緒に喜び、失敗しても励まし、失敗した原因を考えさせましょう。失敗を繰り返しながら学びます。だから、親は、子供が何かを出来るようになるまでの忍耐強さ、失敗してもチャレンジする精神、子供なりに考える力などが養われる事を大事にすべきです。こうして子供は自分で生きてゆく力をつけてゆくのです。

今日の聖句にあるように、親が全てのことに感謝し、生き生きと喜んで生きていることは、子供にとって一番の励ましになるのだと思います。

 

聖書のことば 6月号


 

聖 句

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書1512節)


  

大人のまねしながら育つ


唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

子供は親の背中を見ながら育つとよく言います。幼児にとって親は一番身近な先生であり、親の話すことば、人との接し方、感情の表し方などいつもまねしながら学んでいるのです。

そこで親が心得ておくべき、三つのことがあります。

    幼児は、どんなことでも取り入れてしまうほどに吸収力旺盛であるということ。

    まだ良し悪しの区別ができないので、良いことも悪いことも無差別に親をまねる。

    幼児期に人間としての人格の基礎が形成される大事な時期である。

 

以上のことを考えると、親はいつも子供に見られているという意識を忘れないようにしましょう。

親が子どもの良きお手本になることは、自分自身を見直す機会にもなることでしょう。何よりも他人に気遣いができる心優しい子供に成長することは喜ばしいことです。このような子供が増えれば平和な世界になってゆくことでしょう。「平和は子どもから始まる」はモンテッソーリ教育の基本的考え方です。

 

 私は子供の頃に両親が、時々夫婦喧嘩して互いにきつい言葉で罵り合っている姿を見ると悲しくなることがありました。特に父の母に対する接し方や態度を見ていると、自分は愛しているつもりなのだろうけど、随分身勝手な人だなと感じたものです。数日後に、母がつらい思いをしていることだろうと思い、父のことをどのように思っているのか母に尋ねたことがありました。すると、母は父の良いところ、尊敬できるところ、他人に対して慈悲深いことなど沢山話して父のことを褒めたのです。時々言い争いをしても心の底では互いに尊敬し、愛し合っているのだと知り、安心したものです。しかし、子供の前で夫婦喧嘩するのは良くないことです。あってはなりません。また、褒めることができる人は、相手をよく理解している証拠ですし、親が子を褒めることも同じです。自分がよく理解されることは、愛されていると感じて子供は安心するのです。

 

 親はいつも子供に見られているといっても、子供の前で、模範的な態度やことばで何時も振る舞うのは難しいことです。しかし、上記の三つの親の心得を持っていれば、愛する子供に今何をなすべきか、今どのようなことばで接するべきか自然と身につくにちがいありません。少なくとも感情の赴くままの接し方や言葉遣いはしなくなることでしょう。自己流で、身勝手な愛し方は、いつも修正されなければなりません。親も誰かを尊敬し、その人の生き方をまねながら成長するのだと思います。

 

今日の聖句であるキリストの言葉は、最後の晩餐の席で弟子たちに言い残された遺言のような大事な言葉です。ただ「互いに愛し合いなさい」と言われたのではなく「わたしがあなたがたを愛したように」と条件があるように、独り善がりで自己流の愛し方ではなく、キリストが私たちを愛した、その愛し方をまねて、互いに愛し合いなさいと言われたのです。そうするとキリストはどのように人々を愛したのか学ばなければならないことになります。不完全な人間である私たちにとって「愛する」という言葉は、奥深いものですね。・・・

どんな人もキリストを完全にまねることはできませんが、少しずつまねる生き方をするようにと言い遺したのでしょう。

聖書のことば 5月号



 聖 句

マリアは言った。「わたしは主(神)のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(新約聖書ルカによる福音138節)

   

聖母マリアの生き方

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦

 カトリックでは、新緑と花々が咲き乱れる美しい季節を迎える五月を、聖母マリアの月と呼んでいます。この月には特に聖母マリアに尊敬と祈りを捧げるのです。 彼女の生きる姿勢と生き方が、よく現れている聖書箇所が今月の聖句です。この後に続く46節から54節は「マリアの讃歌」と言われ、全世界のカトリックの教会や修道院で季節を問わず、毎日唱えられています。

 

 マリアは、ユダヤの国のナザレという小さな町に、父、ヨアキムと母、アンナの間に生まれました。神からのお告げがあった時、すでにナザレの大工であったヨゼフと婚約していました。ですから、彼女は、平凡で幸せな家庭を築こうと夢見ていたと思います。そのような時期に、ある日突然、救い主(イエス・キリスト)の母となるよう神から要請を受けたのです。だから、驚きと戸惑いのなかで、しかし、彼女は謙遜な心で神の御旨(人類を救うという神の計画への協力要請)を「お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って受け入れ、またその誉れある使命を受けたことを人々と共に喜び、その御旨を忠実に果たすための決意を胸に秘めて「マリアの讃歌」を歌ったのです。神の救いの計画を実現するためには人間側の協力者が必要だったのです。他方、マリアが救い主の母となられたことは、彼女の誉れであると同時に、私たちの大きな喜びです。何故なら、マリアを通して救い主が生まれ、その御子、イエスによって人類の救いがもたらされたからです。

 

 マリアの生き方で、心に留めておきたいことは、彼女が、神の計画を全面的に受け入れ、協力し、生涯を神の計画のために生きられたことです。彼女の神への従順さと謙遜さがこの聖書箇所に現れていると思います。そして、神のお告げを受けた当時、これから築こうとしていた小さな幸せな家庭という自分の夢よりも、神の御旨を果たす道を選ばれたのです。彼女の心のなかでなされた決意は、人類の救いにおける大事な瞬間でした。この決意があったからこそ救いは実現し、マリアの子、イエスによって永遠の命への道が開かれたからです。しかも、信じる者は、皆、永遠の命に生きる者とされることは、信じる全ての者の母となったことをも意味します。それ故、マリアを聖母と呼ぶのです。聖母の生き方は、多くの人々の模範となりました。神への信頼の深さ、神の招きに素直に従う清い心、神の救いの業に協力する惜しみない心などは、何時の時代も多くの人々に称えられてきました。私たちも聖母マリアの生き方に学ぶことができますように。

 

聖書のことば 4月号


聖 句
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章:34節)


続‐子育ての基本的心得

唐津カトリック幼稚園 園長 江夏國彦
 美しい花々が咲き乱れる春のうららかな日に、嬉々として新園児たちが登園してくる姿を見るのは、幼児教育に携わる者に取って、最も希望に満ちた喜ばしい光景です。今年も職員一同、喜びのうちにお迎えしたいと思います。

 純粋で愛らしい子どもたちが、全国各地で親の虐待を受けていることが、時々明るみに出ます。先月は逆に大学生の息子が両親を殺害した事件が鳥栖市で起きました。最も愛し合っているはずの親子が、双方とも人間として未熟のためにこのような痛ましい出来事が起きたのでしょう。両親を殺害したとされる大学生(19)の裁判員裁判が3月7日、佐賀地裁で開かれました。判決は9月に言い渡される予定です。日頃から両親から、行き過ぎた教育パパ、教育ママならぬ教育虐待を受けていたとのことです。
 悲しい思いになると同時に、私自身、保育、教育に携わる者として、幼児教育の重要さと日々の自分の考えや行動を見つめ直す必要があると思っています。

 それにしても、もし、私が2月号のブロク「おむすび」で書いた「子育ての基本的心得」があれば、決してこのような事件は起こり得なかったと思います。ブログで三つの事を述べました。簡潔にもう一度、箇条書きしたいと思います。大切な子どもたちのために、読んでほしいと思います。

1, 子どもは神からの預かり者であり、自分の芸術作品のように思ってはなりません。
2, 子どもには神さまから受けた使命があり、自分の願いを押し付けてはなりません。親はそれを果たす事ができるように助ける役割と責任があります。
3, 誰でも生きてゆく事自体が大変なことです。お互いに愛し合うことによって、親は子に寄り添いながら良き同伴者となることが求められます。その事によって親も子も共に成長するのです。

 どのような人間関係も本当に愛する心がなければ、その関係は、いつ壊れるかもしれません。人間は神に愛された者であることの自覚がなければ、人間の憎愛は、極端から極端へ揺れ動くものだから壊れやすいのです。